断章(9)

(9)日々の思い
昭和の時代を考える(その2)
1936年(昭和11年) 二・二六事件 :  その日、東京は30年ぶりの大雪が降っていた。急進的な青年将校たちが兵を率い、クーデターをおこした。高橋是清蔵相、斎藤実内大臣らを殺害し、東京・永田町一帯を占拠したが、陸軍当局によって鎮圧された。事件直後、陸軍首脳はこの青年将校たちの助命活動に躍起となったが、昭和天皇に一喝されて反乱を指導した将校らは、戒厳令下に非公開で行われた軍法会議にて死刑に処せられた。事件後、陸軍は内部の統制回復を図るとともに、政治の革新を求め、後継内閣の閣僚人事に介入。軍部の政治的発言力が強まっていった。この事件を契機に軍部の独断専横が激しさを加えていった。
*筆者*
1868年、明治元年を境に日本は近代国家の道へと進んで行くのだが、長い鎖国の結果、軍事力、経済力、科学力等が西欧諸国に比べて著しく見劣りしていた。薩長を中心とする明治の新政権は、この事をよく理解して富国強兵政策に邁進して行った。
明治27年(1894)の日清戦争さらに
明治37年(1904)の日露戦争では、世界情勢をよく理解し、情報収集にも余念がなかった。また第一次世界大戦(1914 年7月28日から1918年11月11日)では、連合国側に組みしてそれなりの活躍をし、日本経済は大きく躍進した。この相次ぐ勝利の美酒が、日本軍部に傲慢さを生んだ。皇統(天皇家)は万世一系で日本は神の国であると云う思想が、軍部を中心に国民全般に深く根付いて行った。1889年(明治22年)2月11日に公布された大日本帝国憲法 の第一條には以下の如く明記されている。
「第一條
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と、
さらに統帥権の問題が軍部の独断専横を許していた。
統帥権(とうすいけん)とは、大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する最高の権限(最高指揮権)で、天皇に帰属していた。
つまり統帥権の下では、国会も首相も軍部に何の制御が効かなかったのである。それでも軍部自体に自浄能力がある場合は、国家としての統一行動は可能であった。しかし昭和に入ってからの軍部は、この自浄能力を失って行った。
1937年(昭和12年) 盧溝橋事件、第二次上海事変(日中戦争または支那事変)が始まり、同12月に*南京事件*が発生。
*南京事件*
南京事件(なんきんじけん)は、1937年(昭和12年)12月の南京戦において日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって、当時の日本軍が中国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵、そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行を行ったとされる事件。「名称の種類と変遷」節で述べるように、南京大虐殺、南京大虐殺事件、南京虐殺事件など多様な呼称がある。
南京事件は、事件直後から欧米の報道機関によって報道されており、日本政府や日本軍の保存した公式文書の中にも事件直後に行為を認知したとことを傍証する文書が存在している。終戦後に行われた南京軍事法廷や極東国際軍事裁判では南京事件について裁かれた。その後も南京事件論争で述べるように、事件の規模、虐殺の存否、戦時国際法違反か、犠牲者数などさまざまな論争が存在している。
こうして関東軍の下剋上(東京の陸軍省の命令をしばしば無視した)とも言える戦争拡大が加速されて行った。
*関東軍とは
大日本帝国の中華民国からの租借地であった関東州(遼東半島先端)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都である新京に移転した。
次回に続く
関連記事

コメント