断章(10)

(10)日々の思い
昭和の時代を考える(その3)
1938年(昭和13年) *張鼓峰事*、*国家総動員法*、臨時通貨法制定
*張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)は、1938年(昭和13年、康徳5年)の7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰で発生したソビエト連邦との国境紛争である。実質的には日本軍とソ連軍の戦闘であった。ソ連側は、これをハサン湖事件と呼んだ。8月に停戦となったが、問題の芽は燻(くすぶ)っおり、翌年のノモハン事件と持ち越された。
*国家総動員法とは→戦争目的なら国家が人的物的財産を自由にできるという現在では考えられない法律。
1939年(昭和14年) 第二次世界大戦始まる、*ノモンハン事件*
*ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争のこと。1930年代に日本(大日本帝国)とソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつ。満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。この事件でも、同6月に関東軍は参謀本部の意向を無視してモンゴル領内タムスク飛行場を爆撃して戦線を拡大して行ったが、8月下旬にはソ蒙軍の総攻撃に合い第23師団は80%近い損害を出し、9月15日に停戦となった。
1940年(昭和15年) 日独伊三国軍事同盟が成立。
*日独伊三国軍事同盟とは?
日本軍の中国での戦場が、中部から南部に広がっていくと、この地方に色々な権利を持っていたアメリカや、ヨーロッパの国々との間に揉め事がおこるようになった。
これらの国々は自分たちが中国に持っている権利を守るために、日本に向かって強い態度を取る様になって来た。
そして、日本との貿易が消極的になり、蒋介石を日本と戦わせたりした。
また日本は、北の方にソビエト連邦と云う敵があった。
ソビエト連邦は1917年(大正6年)の革命以来、急激に発展した国であったが共産主義の国であった。
日本の軍部や政府は、共産主義の考えが日本に広がるのを極度に恐れていた。
このように日本は、ただ中国と戦争をするばかりでなく北にも、怖い敵を控えてアジアで孤立させられた。
いっぽうヨーロッパでは、第一次世界大戦に負けたドイツが戦後莫大な賠償金を背負わされ、復興もおぼつかない所へ世界的な不景気の波が押し寄せ国民は、苦しいどん底の生活に突き落とされた。しかも、戦後のドイツでは政治が不安定で希望のない暗い時代となっていた。
こうした社会へ、ヒットラーの率いるナチス党があらわれた。
ナチス党は、ドイツの行き詰まりを救うために外国に戦争しかけ、植民地を広げる政策を取った。
この政策はドイツ国民の圧倒的な支持を受け、権力的な基盤を確固のものとして行った。さらに大資本家の援助を受け、日本の軍部と同じように武力による政治を拡大していた。
イタリアでも
ムッツリーニが政権を握り、民主主義とは反対の方向へ国の政治を引っ張っていた。
そしてこの二国は武力によって、他の国を倒してでも国の力を強くしようという政策のもとに手を結んだ。
日本も、この2つの国と接近し、国内に資源を持たないので他の国に軍事的な介入をして自国の資源確保に奔走していた。そして軍国主義が幅を利かせた結果、同じ様な政策基盤であるドイツ・イタリアと軍事同盟を結ぶ結果となった。
次回に続く
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