断章(12)

(12)日々の思い
昭和の時代を考える(その5)
*真珠湾攻撃(再考)
しかし、日本の仮想敵国は本来北方の大敵ロシアであり米国ではなかった。日本は米国に対して一貫して友好的であり、米国産業界にとっても日本は世界第三位であったが、問題を起こさない上得意の国であった。それなのになぜ日本は真珠湾を攻撃することになったのか?
それは戦前の日本が米政府から長期的な圧迫を受け、追い詰められたからである。日本の対米戦の動機は自尊自衛であり、まさに窮鼠猫を噛むであった。日本の反撃の直接の契機となったのは直前の*ハルノート*であるがルーズベルトの敵対行動はその4年前の支那事変から始まっていた。
*ハルノート*
日米交渉の最終段階におけるアメリカ側の提案。1941年11月20日日本側が提出した対米交渉要領乙案にたいする回答として,11月26日にC.ハル国務長官が提示した。おもな内容は,いっさいの国家の領土と主権の不可侵,内政不干渉,通商上の機会の平等,国際紛争の平和的解決の4原則のほか,日本,アメリカ,イギリス,中国,オランダ,タイ,ソビエトの間の多辺的不可侵条約の締結,中国とインドシナからの日本の軍隊と警察力の全面撤退,重慶にある中華民国国民政府以外の政府もしくは政権の否認,日独伊三国同盟の否認などであった。これまでの日本の全ての権益を返上しろとの一方的な要求で、とても日本国内で受け入れ難いものであった。
1937年8月13日の支那事変はスターリンがヒトラーの東西挟撃戦略を破るために前年12月の西安事件で捕らえた蒋介石を使って起こした戦争である。日本は早期講和を求めて日露戦争当時のように米国に仲介を要請したが、ルーズベルトは仲介を断っただけでなく逆に莫大な軍事援助を蒋介石軍に差し出し、ソ連と一緒になって日本を攻撃したのである。まさに火に油を注ぐ行為であった。
蒋介石は米ソの援助無しでは一日も戦争を続けることが出来なかったから支那事変は実質的には、米ソ共同の対日代理戦争であった。この結果戦争は泥沼化し日本軍は支那大陸に長期間足止めされたのである。
それでは何故ルーズベルトは日本を攻撃したのか。これは19世紀の米国の太平洋政策にさかのぼる。すなわち1890年代に西部開拓を了えた米国は太平洋に進出し、ハワイ、フィリピンを征服し次の目標として支那満州への進出を望んだ。それが1899年のジョン・ヘイ国務長官の支那門戸開放機会均等宣言である。
日露戦争では米国はロシアの満洲全土占領を阻むために日本に講和を仲介したが日本政府が鉄道王ハリマンの南満州鉄道買収を拒むと、米国は対日友好から一転反日となり、日系人への迫害が始まった。そして1931年の満州事変で日本が翌年1月のスティムソン国務長官の満洲原状回復要求を拒否すると日本打倒を決めたと思われる。満洲事変こそが日米戦争に到る対立の引き金になったのである。
1942年(昭和17年) ドーリットル空襲、*ミッドウェー海戦*、ガダルカナル島の戦い
*ミッドウェー海戦*
ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん; 英語: Battle of Midway)は、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)6月5日(アメリカ標準時では6月4日)~7日,ミッドウェー島付近での海戦。同島攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で発生、日本海軍の機動部隊と米国の機動部隊及び同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は航空母艦4隻とその艦載機多数を一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失った。ミッドウェー海戦はMI作戦(MI作戦とは、第二次世界大戦中の1942年6月にミッドウェー島の攻略、米空母部隊撃滅を目的とした日本の作戦)の一部であり、この敗北で同作戦は頓挫した。この海戦の敗因は、アメリカとの情報戦にあったとも言われている。日本軍の暗号文は全てアメリカに解読されていたらしい。先の真珠湾攻撃でも、日本の暗号文は解読されていたのだが、時の大統領ルーズベルトは何が何でも日本に先制攻撃を仕掛けて欲しいと願っていたので、米国内の反戦感情を交戦体制に導く為に日本軍を誘い出したとの噂もある。
次回に続く
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