断章(13)

(13)日々の思い
昭和の時代を考える(その6)
1943年(昭和18年) アッツ島の戦い、*イタリアの降伏*、*学徒出陣*
*イタリアの降伏
第二次世界大戦中の1943年9月8日に、イタリア王国が連合国と締結していた休戦協定を発表して枢軸国から離脱し、降伏に至った。これにより独裁者である首相ベニート・ムッソリーニは、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世より、その地位を追われた。
*学徒出陣(がくとしゅつじん、旧字体: 學徒出陣)とは、第二次世界大戦終盤の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。日本国内の学生だけでなく、当時日本国籍であった台湾人や朝鮮人、満州国や日本軍占領地、日系二世の学生も対象とされた。
軍部の暴走は留まる所を知らず、参謀本部は大局的な視野を失い軍人としてのプライドだけで、国民を塗炭の苦しみへと追い込んでいった。
1944年(昭和19年) 大陸打通作戦、*神風特別攻撃隊(10月)の出撃*
*神風特別攻撃隊
神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい、又はしんぷうとくべつこうげきたい)は、第二次大戦で旧日本軍陸海軍が体当たり戦法のため編制した特別攻撃隊で、略称は「神風」、「神風特攻隊」、「特攻隊」とも呼ばれた。この体当たり戦術は、太平洋戦争および神風特攻隊の創設以前に、日本海軍航空隊の草分けである山本五十六がすでに言及していた。
1931年(昭和6年)12月1日、城英一郎少佐は海軍大学校卒業時の作業答案を山本五十六少将(海軍航空本部技術部長)に提示、将来の航空機について山本の意見を聞き、この時に2人は「最後の手は、肉弾体当たり、操縦者のみにて爆弾搭載射出」として航空機の体当たり戦術を検討したと言われている。
1934年(昭和9年)、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に参加した山本五十六少将は、新聞記者に対し「僕が海軍にいる間には、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語ったという。
1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争勃発後、ミッドウェー海戦やガダルカナル島の戦いを経て戦況は悪化、山本五十六大将(連合艦隊司令長官)も1943年(昭和18年)4月18日の海軍甲事件で戦死した(連合艦隊参謀長宇垣纏中将重傷)。同年6月5日、城英一郎大佐(昭和天皇侍従武官)は、特別縁故者として山本元帥の葬儀に参列。かつて山本と『航空機体当たり』を検討した事を回想する。6月22日、城は自らを指揮官とする特殊攻撃隊の構想をまとめ、海軍航空本部総務部長大西瀧治郎中将に説明した。数回の意見具申に対し大西は「(意見は)了解したがまだその時期ではない」と返答し、全幅の賛同を示さなかった。
しかし、ニュージョージア島の戦い勃発により戦局が悪化する中、城は「特殊航空隊の緊急必要」を痛感するが実現には至らなかった。
1944年(昭和19年)2月15日、城英一郎大佐は瑞鳳型航空母艦4番艦千代田艦長に任命される。6月下旬、日本海軍はサイパン島の戦いにともなうマリアナ沖海戦に大敗(城も千代田艦長として参加)。城は大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している。また第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将、連合艦隊司令長官豊田副武大将、軍令部総長及川古志郎大将にも「体当たり攻撃以外に戦勢回復の手段はない」との見解を上申した。
特攻第一号
1944年(昭和19年)10月20日午前10時、大西が神風特攻隊の訓示と命名式を行い、初の特攻隊である敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が編制された。大西は敷島隊に「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。
次回に続く
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