断章(16)

(16)日々の思い
昭和の時代を考える(その9)
1945(昭和20)年
8月10日 ポツダム宣言受諾の決定
8月14日 ポツダム宣言受諾
8月15日 *宮城事件*、*玉音放送*
*宮城事件*(きゅうじょうじけん)とは、1945年8月14日の深夜から15日にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。
日本政府は8月14日の時点でポツダム宣言の受諾を連合国側に通達していたが、これに陸軍が反発。15日に予定されていた天皇の玉音放送を阻止し、戦争を継続させようと目論み、皇居へと襲撃をかけた。
陸軍によって皇居が一時制圧されるも、最終的にクーデターそのものは失敗し、首謀者らは自刃した。
1945年8月、2発の原爆を落とされ、資源も尽きていた日本は、連合国側からポツダム宣言を突きつけられ、8月13日の最高戦争指導会議で、ポツダム宣言の受諾を決定する。
日本時間8月14日に連合国側にその旨(ポツダム宣言受諾)を伝えている。
ただ、これに最後まで反発していたのが陸軍だった。海軍・空軍が壊滅的状況の中、陸軍は本土決戦用に温存され、当時でもなお230万の兵力を保持していた。
この状況で無条件降伏を受け入れるというのは、軍人としてはもちろん、当時の神国と言われていた日本の精神的基盤を考えれば、一部の人たちにも無条件降伏は受け入れがたいことであった。
そのため...ポツダム宣言そのものを拒否するとの意向を固め、畑中少佐を含めた6人の陸軍将校らが、当時の陸軍大臣であった阿南惟幾(あなみ これちか)大将に「兵力使用計画」というクーデター計画を掲示し、クーデターへの賛同を求めていた。
このクーデター計画は、近衛兵と東部軍を用いて皇居を占拠し、天皇を擁立、政府首脳部の和平派追放、ポツダム宣言破棄、戦争継続を訴えていく....といった内容であった。
ただ、このクーデター計画自体は阿南陸軍大臣らに否定され頓挫する。阿南大臣からの返答があった時点で8月14日午前を迎え、既に連合国側にポツダム宣言受諾を通告していた。
もし、このクーデターが成功していたら、日本国民は本当に「一億総玉砕」の運命に巻き込まれて行ったかもしれない。
そして8月15日正午、天皇陛下の「玉音放送」が日本中に流されて戦争の終結となった。
9月2日 *降伏文書調印*
日本がポツダム宣言を受諾した2週間後の1945(昭和20)年8月28日、米軍の第一次進駐部隊が神奈川県の厚木飛行場に着陸した。2日後には連合国最高司令官として占領地である日本の最高権力者となった米国のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。
9月2日には東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われた。日本側の全権団は重光葵外相、梅津美治郎参謀総長らで、これを迎えたマッカーサー元帥は「相互不信や憎悪を超え、自由、寛容、正義を志す世界の出現を期待する」との演説で終戦を宣言した。
降伏文書が調印されたことにより、足かけ5年にわたる太平洋戦争は公式に終了した。以後、1951(昭和26)年9月の対日講和条約調印まで、日本は連合国の占領下に置かれることになった。
*選挙法改正→20歳以上の男女に選挙権
幣原内閣の堀切善次郎内務大臣は、婦人に初めて選挙権及び被選挙権を認める「衆議院議員選挙制度改正要綱」を、昭和20年(1945)10月23日の閣議に提出、衆議院議員選挙法改正法案として帝国議会に提出、12月15日可決成立した。婦人参政権は、男女同権を規定する日本国憲法に先立って制定された。同時に、選挙権は20歳以上、被選挙権は25歳以上と、それぞれ引き下げられた。
次回に続く
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