断章(18)

(18)日々の思い
昭和の時代を考える(その11)
*極東国際軍事法廷の考察*
インドの法学者ラダ・ビノード・パールのみが
「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」
との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではない。
さらにパールは
「裁判官が戦勝国出身者のみで構成されている事の適切性に疑義を抱き、侵略戦争の責任を個人に求めること」
の妥当性にも言及した。
そして、侵略戦争と自衛戦争の区別。この中でパールは、日本の戦争を一方的な侵略戦争とは断定できないとしている。
この論理の背景には、世界中が侵略戦争に明け暮れていたとの見解がある。
それを侵略戦争が罪であると云うならば、連合国側こそ裁かれる立場にあるとの思考がパールにはあった。
連合国側の勝者の論理でのみ裁判の妥当性を論ずる事に、彼は深い懸念を現したのである。
そして更に、厳密な意味での戦争犯罪の検討をするなら、非戦闘員の生命財産の侵害が戦争犯罪になると規定した場合、日本への原子爆弾投下を決定した者こそ裁かれるべきであろうとしている。
もちろん、彼のこの様な見解は連合国側の圧倒的多数の判事たちに握りつぶされてしまった。
「公職追放」
軍人だけではなく、戦時中に軍に協力的であったとされる政治家や思想家など20万人が職を解かれ、公職から追放された。政府機関の職に就くことを禁止された人も多く、戦争犯罪人とされた人、大政翼賛会に関与していたとされる人も公職に就くことは許されなかった。
「情報統制」
GHQが最初に行った政策が検閲であった。ラジオ、新聞、雑誌、一般市民発行の本まで厳しく検閲し、軍国主義的なことを掲載しているもの、戦前や戦中の日本を肯定するもの、GHQを批判する内容などは、徹底的に排除された。
「貴族制度の禁止」
昭和22年(1947年)5月3日、法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典への特権付与否定(第14条)を定めた日本国憲法の施行により、*華族制度は廃止された。推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は、1011家であった。
*華族制度は
華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。
この華族制度は以下の様な状況で作られた。1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させたが(版籍奉還)、何の代償もなく、大名が自分の領地を手放すはずはなかった。そして大名には軍事力があったので、大名と藩士の主従の関係をどう断ち切るかが問題であった。
つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功した。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生している。
5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられた。
1884(明治17)年、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられた。
当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけで、加賀100万石の前田家は、侯爵に過ぎなかった。薩長の藩閥政治の影響であろう。
この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことである。
伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられた。
旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立していた。
学習院は、昔は華族学校と言って、皇族と華族の子供を教育する学校であった。平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められていた。
公爵と侯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証され、伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がなかった。
この様にして華族は、80年間、日本の上流社会を形成していた。
次回に続く
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