断章(20)

(20)日々の思い
昭和の時代を考える(その13)
*ドッジデフレ時代*
ドッジ・ラインとは、アメリカ大統領特命公使として来日した、デトロイト銀行頭取・ジョセフ・ドッジが実施した経済政策である。
立ち直りを見せながらも、いつまでも悪性のインフレが止まらず安定しない日本経済を不安視したアメリカ政府は、荒療治を行なって、日本の経済状態を安定させようとした。
ドッジは、
「日本の経済は竹馬(たけうま)に乗っているような状態だ。竹馬の脚を切らねば倒れてしまう」
と言って、復興金融公庫の債券発行禁止、超均衡予算による財政金融引き締め、統制の緩和、自由競争の促進などを打ち出し、実行させた。
これらは、国の財政健全化と経済の正常化には当然必要な政策であったが、今までインフレが常態化していた日本では、きびしいデフレをもたらした。世にいう “ドッジデフレ” “ドッジ不況” である。
この “ドッジ不況” で、それまでインフレに慣れた経営をしていた企業は倒産し、労働者の失業が数多く発生した。東京証券取引所の修正平均株価(現・日経平均株価)は、85円25銭の史上最安値をつけた。
“ドッジ不況” は、大企業にもきびしい影響を及ぼし、今をときめくトヨタ自動車も、例外ではなかった。
この “ドッジ不況” のとき、トヨタ自動車の当時の社長で創業者の豊田喜一郎は、住友銀行に融資を依頼して断わられ、会社の資金繰りに窮したそうである。
融資を断わるについて、住友銀行側は、
「機屋(はたや・繊維産業のこと)には銭(ぜに)を貸すが、鍛治屋(かじや・自動車などの金属産業のこと)には貸せない」
と言ったと、伝えられている。
占領下の時代、アメリカを始めとする連合国は、日本が二度と軍国化しないように重工業をきびしく制限し、軽工業の国にしようと本気で考えていたと言われていた。住友銀行の貸し出し拒否も、こんな事情が反映されていたのかもしれない。
しかし、この “ドッジデフレ” で、インフレと放漫な経営者は去り、会社にも商店にも堅実経営が戻った。
また為替レートも、1ドル360円と決められ、その後この固定相場が長く続く事となった。
ただ当時、米ドルなどの外貨は、今のように自由に日本円と交換できるものではなく、必要理由のきびしい査定があり、闇ドルの値段は1ドル500円以上との話もあった。
「農地改革」(1946-48)
第二次大戦後の民主化の一環として、日本の指導者と連合国総司令部(GHQ)当局は協力して農地改革(1946-48)を進めた。これは最も成功した占領期の改革の一つとされ、諸外国における土地改革のモデルとなった。改革の目的は、農地を所有しながら自らは耕作をしない地主と、土地を借りる代わりに農作物の大半を地主に納める小作農との格差を縮めることであった。農地改革に関する法律は、農地を耕作農民に解放する立場から、一世帯が所有できる農地を家族が自ら耕作できる面積に制限した。特に所有地に住んでいない不在地主からは国がその所有地全部を、北海道以外の地域に住む在村地主からは1ヘクタール(2.5エーカー)、北海道の在村地主からは4ヘクタール(10エーカー)をこえる分を強制的に買収して、小作人に売り渡した。その結果、小作農のほとんどが自作農となり、農民の暮らしは大幅に改善された。
以上は表向きの話しで、実際にはこの農地改革は非常に多くの矛盾を含んでいた。
その矛盾に関しては、次回に考察したい。
次回に続く
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