断章(21)

(21)日々の思い
昭和の時代を考える(その14)
「農地改革の矛盾」
農地改革で本州の自作農の田んぼの平均耕作面積は、1ヘクタール(1町歩)=10反(100アール)となった。
かなり収穫量の多い田んぼでも、10アールあたりの収穫量は、米で12俵(60kg×12俵)である。
1ヘクタールの田んぼなら、120俵。1俵を3万円として、360万円が年収となる。
この360万円から、農薬・機械などの費用と家族4人の生活費が賄えるのか?
農地改革をせずに、農家一軒が30~50ヘクタールの田んぼを持つのなら、大規模経営だから輸入米とも戦えるはずだ。しかし、1ヘクタールの小規模経営なら、田んぼだけでは食っていけない。
それ故に、アメリカは日本の農業を破壊するために、農地改革をしたのでないかとの推論も成り立つ。
事実、昭和30年代になって1ヘクタールの田んぼでは生活が出来なくなって、都会に出たり工場労働者になった農民が数多く出現している。
日本の農業が衰退したのは、この農地改革にあったとの意見も多い。
現在我が国の食の自給率が低くなったのは農地改革が遠因であると、説く学者もいる。
農地改革で一瞬は、自分の農地になったことにより生産意欲が湧き、日本の農業生産高は飛躍的に増進した。
しかし、一方で、不在地主のみならず自作農からも一定面積を超える農地を没収したため、大規模営農が事実上不可能となり、日本の農業が国際競争力を得られない構造が固定化されることとなった。
戦後に地主とされた者の中には、一家の働き手が外国の戦地から日本に帰還せず、仕方なく田んぼを他人に任せていたところも数多く、不在地主として認定され没収された例も多かった。
農地改革は252万戸の地主から全農地の35%、小作地の75%に相当する177万haを強制的に買収し、財産税物納農地と合わせて194万haの農地を420万戸の農家に売却したものであった。農地買収は正当な価格、十分な補償で行わなければならないとGHQは主張し、インフレによる「物価スライド条項」の導入にこだわった。しかし、時の農相和田(社会党)は徹夜の交渉により、GHQを説得して「物価スライド条項」を撤回させた。
この撤回により戦後の悪性インフレによって貨幣価値がいちじるしく減価したにもかかわらず、農地改革が終了する1950年まで買収価格は据え置かれたのである。この結果、買収価格(水田760円、畑450円)はゴム長靴一足(842円)にも満たない、事実上の無償買収となった。このため、農地を買収された地主階級から*農地買収の違憲訴訟*が相次いだ。
後日、GHQの農地改革担当者ラデジンスキー博士は社会党の実力者となっていた和田と会談した際、和田に農地証券がインフレによりただ同然になることを予想していたのかと質問した。和田は言下にイエスといい、「もし、農地改革を物価にスライドさせていたなら、政府の重い財政負担によって今日のような日本経済の成長はなかった。あの時ラデジンスキー博士が譲歩してくれたのは日本経済のその後の発展への最大の貢献だった」と答えている。
*農地買収の違憲訴訟*
最判(最高裁判決)昭和28年2月18日
~別府農地買収処分事件~から始まった違憲訴訟は、いずれも最高裁で却下された。
次回に続く
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