断章(25)

(25)日々の思い
昭和の時代を考える(その18)
1950(昭和25)年6月25日 : 朝鮮戦争勃発(1953年7月27日休戦)
朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた朝鮮半島の主権を巡る国際紛争で、1950年6月25日に金日成率いる北朝鮮が中華人民共和国の毛沢東とソビエト連邦のヨシフ・スターリンの同意と支援を受けて、国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した。
アメリカとソ連は1946年の1月16日から朝鮮の独立国家建設のために米ソ共同委員会を設置した。しかし、李承晩をはじめとする信託統治に反対する団体や政党を臨時政権から追い出すように主張するソ連に対し、アメリカはすべての団体を参加させることを主張した(アメリカは反信託統治と同時に反共産運動をしている団体を支持)。その結果、米ソの意見は対立して、5月6日に委員会は決裂。信託統治案は頓挫した。
1948年8月15日、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言した。
一方、朝鮮の北半分では金日成を中心にしてソ連の支援を得ながら共産主義国家成立への道を歩み始めていた。同年の9月9日に金日成は朝鮮民主主義人民共和国を成立させる。これによって、北緯38度線は占領国が引いた占領境界線ではなく、事実上の国境となってしまった。
しかし、朝鮮統一を目指す金日成はソ連の指導者であるスターリンに、南半部への武力侵攻の許可を求めた。だが1948年の時点で、ソ連はアメリカとの全面戦争を避けるために北朝鮮の申し出を却下した。
その一方で韓国の李承晩は、反共主義者であると同時に反日主義者でもあった。そんな李承晩はアメリカ政府に対し、対馬と竹島を日本領土から除外することを主張したが、アメリカはその要求を再三にわたって拒否した。
また1950年にアメリカのディーン・アチソン国務長官が「アメリカが責任を持つ防衛ラインはフィリピンー沖縄―日本―アリューシャン列島までとし、それ以外は責任を持たない」と発言した。この発言から推測すると、この防衛ラインに朝鮮は含まれておらず、これを聞いた金日成はアメリカが南半部を見捨てたと判断した。
このような経過で、大韓民国に攻めるチャンスだと考えた金日成はスターリンに南半部への侵攻を許可するように求めた(許可を求めるため、毛沢東が南進に積極的であることを示した)。その結果、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に侵略を容認し、軍事支援を開始した。ソ連の軍事顧問団は南侵略計画である「先制打撃計画」を立案した。これを受けて中華人民共和国を訪れた金日成は毛沢東からの中華人民共和国の支援を約束させた。
そして1950年6月25日午前4時に北緯38度を超えて北朝鮮軍の侵攻が開始された。宣戦布告は行われておらず、さらに韓国の大部分の部隊は農繁期だったため警戒を解除していた。また、前日には首都ソウルで陸軍庁舎の落成式の宴会があり、軍司令部の幹部の登庁が遅れ指揮系統は混乱に陥った。さらに李承晩が奇襲のことを知ったのは、奇襲から6時間たった後であり、絶妙なタイミングを狙った北朝鮮軍の作戦は大成功だった。その上、当時の北朝鮮と韓国の軍備の差は圧倒的に北朝鮮が優勢であった。戦車の数は北朝鮮:韓国=240 : 0/砲552門:91門/航空機221機:22機であった。
次回に続く
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