断章(26)

(26)日々の思い
昭和の時代を考える(その19)
【朝鮮戦争】の続き
混乱を狙った奇襲攻撃に加え、軍事力でも圧倒的に優位な北朝鮮軍は開戦3日後の6月28日にソウルを陥落させた。指揮系統が混乱した韓国軍は漢江にかかっていた橋を避難民ごと爆破(漢江人道橋爆破事件)して、軍の士気をさらに下げる要因を作った。
これを見たアメリカは、7月4日応戦のために日本に駐留していた陸軍を投入した。しかし、想像以上に強い北朝鮮の装備にあっさりと蹴散らされ敗北、撤退の結果となった。その後も国連軍が参戦するも、韓国軍同様に敗走を続け8月には釜山(朝鮮半島最南端)まで追い詰められ、後ろは海という絶体絶命の危機に陥いる。
しかし敗走を続けていた国連軍ではあったが、GHQの最高責任者であり、国連軍総司令官となったマッカーサーが「仁川上陸作戦」を立案。仁川上陸作戦とは兵をソウル近郊の仁川に上陸させ北朝鮮の補給路を断つ作戦である。国連軍の陸軍、海軍は「郡山上陸作戦」を押していたが、マッカーサーは「仁川上陸作戦」を決断。その結果、「仁川上陸作戦」は大成功。北朝鮮の補給路を断つことが出来た。
「仁川上陸作戦」の成功を機に形勢は一気に大逆転し、9月28日にはソウルを奪還した。
その後も「祖国統一」を目指していた韓国軍の進撃は続き北緯38度線を超え、10月には北朝鮮の首都平壌を制圧。さらに北進を続け、10月下旬には北朝鮮軍は中国の国境付近まで追いつめられた。
こうして北朝鮮軍が崩壊の危機に瀕すると、金日成は先ずスターリンに本格的な軍事介入を要請した。しかし、アメリカと全面戦争をする事を嫌ったソ連に要請は断られた。そこで金日成は中華人民共和国に支援を要請。10月2日に金日成からの部隊要請の手紙が届くと、介入は不可避とし中国は参戦を決意した。中国もアメリカとの全面戦争を避けるため、中国人民解放軍を義勇軍(中華人民の自発的な参加者)」として参加させた。
中国兵は最前線だけで20万人、後方支援は100万人という圧倒的な数の兵を使って敵を圧倒する人海戦術で戦った。それは中国兵の3分の2が武器を持たず、ラッパや鐘を打ち鳴らしながら前進し、戦死した仲間の武器を拾って戦うという人道無視の作戦であった。しかしこの人海戦術が非常に効果的で、中国の参戦を想定していなかった国連軍は立て続けに敗走。1951年1月に再びソウルが陥落した。
それでも国連軍は3月14日に再びソウルを奪還した。その後、多少の動きはあったものの二年以上38度線付近で、膠着状態となってしまった。
第一線では偵察や警戒が昼夜を問わず行われ、死傷者が出ない日はなかったものの両軍ともに大規模な作戦は行われなかった。
この様な膠着状態となつて、国連軍総司令官のマッカーサーは政府の許可なしに「中国軍を徹底的にたたきつぶす」と発言し、進撃の命令をしたり、政府の意向に沿わない原子爆弾の使用を提言したりと、ソ連を巻き込んで第三次世界大戦を起こしかねない暴走が目立ち始めた。そのため、トルーマン大統領は1951年4月11日にマッカーサーをすべての軍の地位から解任。国連軍総司令官の後任は第10軍司令官のマシューリッジウェイ大将が着任した。その後アメリカに帰ったマッカーサーは退任演説をし退役。軍歴を閉じた。
1951年6月からソ連の提案で停戦協定が模索されたが、双方が利益を少しでも有利な条件の停戦を要求するため交渉はなかなか進展しなかった。しかし、1953年に入ってアメリカの大統領がアイゼンハワーに変わり、ソ連のスターリンが死去すると情勢は一変。38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、三年続いた朝鮮戦争はひとまず終結しした。
次回に続く
関連記事

コメント