診察室からコンニチハ(36)

2日後の金曜、午前中の外来診療はいつも通りの忙しさであったが私の心は落ち着かなかった。昼食も殆ど喉を通らなかった。約束の午後2時にT女史から、少し遅れるとの電話が入った。幾らか拍子抜けしたが、それでも大きな期待感が萎(しぼ)んだ訳ではない。午後2時15分になって彼女はやって来た。やや恐縮の態で、先ず遅刻の謝罪をした。
私はそんな彼女の謝罪を意に介する様子は見せず、笑顔で院長室に招き入れた。先ずは名刺交換をして、夫々が応接セットのソファに座った。彼女の方から話が始まった。その脇には私の小説をプリントアウトした「霜月の夕暮れ」が置かれていた。
そのプリントの束を目にして私は、T女史の本気度を自覚した。そして彼女は滔々(とうとう)と語り出した。
「ネット上で先生のブログに出会い『霜月の夕暮れ』を読ませてもらい、とても感動しました。その感動を多くの人にも知って欲しいので、それには是非ともこの小説を出版させたいのです。先ず初版は3千部から手がけ日本中の大きな書店に置き、後は売れ行きの度合いを見て重版する方針です」
との説明は、私にとっては願ってもない話であった。
「しかし、このままで小説は通用するのですか。手直しの必要はないのでしょうか?」
私の稚拙な文章が、そのまま小説として通用するとは思えなかった。そこまで自惚れが強くもなかった。
「はい、私どもはどの様にしたら売れる小説になるのか、先生とゆっくり協議を重ねながら良い作品を世に送り出したいと望んでいます。その為には、先生の意図を十分に尊重しながら文章のリライトは幾度かして行くつもりです。ですから小説完成には1年以上のお時間を頂きます」
そんなに時間がかかるのかと、胸の内で思ったが言葉には出さなかった。さらに彼女は話を続けた。
「それで、先生のご理解が得られますなら早い時期にご契約を頂きたいのでが…」
「分かりました。契約内容はどんな内容でしょうか?」
「今の予定では、ご説明しました様に先ずは3千部を出版して、ご希望であれば1割の300部を先生のお手元にお渡しします。その辺りはご希望にお任せしますが、それらにかかる費用として800万円ほどをお願いしたいのですが…」
「800万円ですか?」
私の驚いた疑問に、
「でも、この本により病院の宣伝効果は大きいと思うのですが…」
T女史は、取って付けた説明をした。
「それで私の元には印税とかの見返りは、どうなっているでしょうか?」
T女史は怪訝(けげん)な面持ちになって、
「印税ですか、それは少し難しいかもしれませんね。1万部以上売れたら幾らかの印税はお支払い出来るかもしれませが、1万部売れると云うのは並大抵の事ではありませんから」
との、話であった。
もしかしたら騙されているのでは?
そんな疑問が頭の片隅に浮んだが、彼女の熱い視線に射られ自分の質問が非常識なものの様な気にさせられてしまった。結局4~5日で契約書類を纏(まと)め上げるから、来週中には署名捺印をして欲しいと言われ、その日の話は終えた。
次回に続く
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