認知症詩集(56)

認知症夜話の終章
「そんな誰の子やと言われても、そりゃあんたの子でしゃろう」と言うばかりです。
その時は二人共、認知症の頂点に立っていました。互いに自分の話す意味が全く理解出来ていなかったのです。
「馬鹿野郎!…俺の子供である訳がないだろう。お前はこの病院に一年以上も入院しているのだ。何処の誰と不貞を働いたのだ。正直に言ってしまえ!」
「正直に言えっても…あなた以外に男の人は知らないし!」
貞子さんは筋道の通っている様な、それでも意味不明の言い訳をしていました。
「てめえは、どうしても白を切るのだな!…この俺と云う者がありながら畜生、俺だって生涯お前しか女を知らなと言うのに…」
夜の7時前、準夜勤のナースは日勤ナースとの申し送りを終え巡回に回っていました。貞子さんの隣接するベッドの女性患者さんは83歳で胃癌末期、意識不明の重症患者さんで、貞子さんと良雄さんの会話などは何処か遠くの世界で聞いていました。
三人部屋の廊下側の74歳女性患者さんは胆嚢癌末期でかなりの重体でした。ナースコールがあっても準夜勤2人でベッド数40床の入院病棟では巡回に忙しく、看護勤務室には誰もいません。面会制限時間7時5分前に、その事件は起こりました。
貞子さんとの口論の果てに良雄さんは常軌を逸してしまったのです。妻に裏切られたという思いのみが頭の中では全てが支配されてしまったのです。
「畜生、畜生!」と言いながら貞子さんの首を絞めてしまったのです。自分で自分が何をしているのか良雄さんは全く分からず貞子さんを絞め殺してしまったのです。その後はベッドの横に腰を抜かして座り込んでいました。午後7時15分巡回にやって来たナースが、その現場を見て大騒ぎ…もちろん警察に直ぐ通報されました。
良雄さんは、その間もベッドの横に座り込んだまま尿失禁で下半身はずぶ濡れ、7時45分には警察官二人がやって来て良雄さんを現行犯逮捕で連行しましたが、警察署で何を聞いても意味不明の言葉ばかりです。
「あいつが、間男を作って俺を裏切った」を繰り返すだけで、それ以外の質問には一切耳を貸しませんでした。
警察に呼ばれ息子夫婦が警察署に飛んで来ました。
息子さんは目を真っ赤に腫らしながら「お父さん、何て事をしたのだ!…何故お母さんを絞め殺したりしたの?」
「うるさい、あいつが俺を裏切ったからだ」
「お母さんが何時お父さんを裏切ったって言うのさ!」
「裏切ったから、他の男の子供を妊娠したのだろうが…」
「お父さん、しっかりして下さいよ。お母さんのお腹には肝硬変症による腹水が溜まっていると、お医者さんが幾度も説明してくれたでしょう」
「うるさい、俺は医者などには騙されない。あいつ自身が自分で妊娠したと言っているのだ。これ以上の証拠があるか?」
「お父さん、何を言っているのですか、お母さんは78歳ですよ、妊娠なんか出来る歳ではないでしょう…」
「うるさい、歳なんか関係あるか、ともかく不貞を働いたから制裁を加えただけよ。俺は何も悪い事なんかはしていない!」
ー完ー
☆認知症詩集は第56話で終わりとさせ頂きます。何故56話で終わるかと申し上げれば、話す内容の種が尽きてしまったというのが本音の所です。
明日からは昨年8月1日から12月4日まで書き続けた「潮騒は聞こえず(129話)の改正版「中沢家の人々」を再スタートさせて頂きますので、従来同様にご愛読頂けば幸いです。
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