中沢家の人々(4)

外回りはパートの女子店員3人が、昼と夕の掻き入れ時には店内を走り回っていた。
貞雄は相変わらず、仕事の選り好みはあったが、家族の一人や二人は養える程度の大工仕事は熟していた。
それに家族の誰にも話してはいなかったが、「ことぶき」を新築した時の材木商への借金がかなりあった。
それらの材木商は、貞雄の大工職人としての腕を見込んで、
「金で返せないなら大工仕事で返す」と、
精一杯の啖呵を切った彼を信じて、無理矢理に借り出された材木であった。それもこれも10年近くかかって、やっと返したが、この事は家族の誰にも話さなかった。
その借金返済が終わるまではと、好きな酒もなるべく控えて嫌な仕事も出来る限り我慢をした。
それでも数ヶ月に一度ぐらいは、如何に借金を返す為とはいえ、やっている仕事の下らなさに酒を飲んで、そのまま休んでしまう事もあった。
しかし借金を返す事も、彼に取っては己の沽券(こけん)にかかわる重大な事だったので、彼の人生の中では最も忍耐を重ねた時期であったかもしれない。
こうして、中沢家は何事もなく1957年の正月を迎えた。
「ことぶき」は12月31日まで営業し、正月は2日から始める。定休日は毎水曜日である。
正月2日から店は大忙しである。
家中でノンビリしているのは貞雄一人である。正月から大工仕事を頼む家もない。
富江の母親も、レジの会計に忙しい。清吉は仲道の下で、それなりの仕事を熟す。清吉と富江と合わせて、何とか仲道一人分の仕事を補えるかと云った所である。
2月も中頃、東京では珍しく数日間、雪が降り続き積雪は30cmを超えた。道路で転倒する人も増えている。誰も外に出たがらない。
公共の交通機関も至る所で寸断されている。食堂「ことぶき」も客足が途絶えていた。一日に2、3名の客しか来ない日が何日も続き、みんな暇を持て余している。
丁度そんな時に富江の母が風邪を引いたといって寝込み出した。数日間は39度近い熱が続き食欲もない。置き薬と氷枕で看病に富江が努めていた。この雪道では医者も来てくれない。そんな病人を連れて行くのも容易ではない。
救急車を呼ぶほど大げさにも考えていなかった。4日目の夜中から何か譫言(うわごと)を言い出し、息も荒くなった。
「富江、富江」
と、引っ切り無しに呼ぶ。
「はい、はい、私はここにいまいす」
と、母親の手を取った。
「夫婦は仲良く…」
と、聞こえるか聞こえないかの声で言ったかと思うと、そのまま寝てしまった。さすがに事の重大さを考えずにはいられなかったが、額に手を当てると熱は下がっているようだ。時計は午前3時を過ぎている。朝まで様子を見て場合によっては救急車を呼ぼうかと考えながら、富江も母親の脇で何時しか寝込んでしまった。
明日に続く
関連記事

コメント