中沢家の人々(7)

紀子の母、道子は夫とは26才で死別し、その後は10年以上も女中の様な妾の様な奉公をしていた。
紀子は死別した夫との子であり、妾奉公していた時代には子宝に恵まれなかった。そんな子供が生まれなかった事情も重なり、道子自身から暇乞いをした。新しい主人に仕えても恵まれない不毛の愛を感じてしまったのだ。
紀子が高校を卒業した年に母子共々、妾奉公の家を辞去したのである。子供の教育の為にも何時まで妾奉公をしている訳にはいかなかった。
母子は泣く泣く別れ、紀子は川口の町工場で経理事務の仕事に就き、道子は箱根の旅館の女中奉公を始めた。
春の小雨の降る中、二人は新宿駅で別れた。
「お母さん、お母さん、もう私たちは一緒に住めないの!
このままずっと別々の生活が続くの…お母さん私は嫌だ、私も箱根に行ってお母さんと一緒に旅館の女中奉公をする。埼玉の川口なんかには行きたくない」と、駅のプラットホームで散々に母との別離を嫌がった。
道子も胸の中では涙に溢れていたが、
「今更何を言っているの、お世話になった方々のお口添えで何とか二人が生きて行ける方法が見つかったばかりだと言うのに我が儘を言って、お母さんを困らせないで!」
と言いながらも道子もまた頬を濡らしていた。
誰がこの世でたった一人しかいない愛しの我が娘と別れて暮らしたいなどと思うものか、しかし他に選択肢がなかった。
18才の娘には未だ将来がある。高校卒業までには簿記3級の資格も取ってある。
小さな町工場といえ、社長さんの人柄は良さそうだし、30人を抱える職員の給与計算と経理の殆んどをやって欲しいと言われている。その上に夜間の簿記学校まで通わせてくれると言う。簿記の資格が2級まで取れたら次は1級だ。もし1級まで取れたら今度は税理士の道が待っている。税理士の資格でも取れたら自分の様に男によって運命を左右される人生とは無縁で、女一人の堂々たる人生が歩める。
この娘だけには断じて私と同じような人生を歩ませたくはない。冗談ではない最愛の紀子に一生旅館の女中奉公などさせられるか?
そんな思いを心に秘めながら、
「獅子が我が子を谷底に突き落とす様な気持ちで」
道子は紀子を突き放した。
「もう、小田急の電車も来そうだから、私は箱根に行くよ。お前は川口に戻りな、晴れて簿記2級の資格が取れたら一緒にご飯でも食べよう。お前の成人式には二人でささやかなお祝いをしようね!…昔の女は18才と言ったら立派な大人なんだから、何時までも子供みたいに愚図っているんじゃないよ!」
と言って、道子はそのまま箱根湯元行きの小田急電鉄に乗り込んでしまった。後は振り返らずに…。
明日に続く
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