中沢家の人々(9)

翌日は澄み切った春の青空だ。
桜の花もすっかり散り、葉桜の時期となっているが、それでも青空の春の風は清々しい。
人の気持ちも気候の変化に左右される。清々しい朝には生きる事への活力も漲ってくるものだ。
町工場の朝は早い。6時には全員が起き出し、急ぎ洗顔を済ませラジオ体操だ。部屋の後片付けを急ぎ済ませ7時前には朝食となる。8時には工場の機械が動き出す。
紀子は経理事務室に入り、先ずは工場長にお茶を出す。その後は本日の出勤簿のチェックだ。そして残業時間の点検である。この工場では月に20時間以上の申請は認められていない。職員の大半は中学卒だ。それが社会の掟だと思っているので誰一人文句の言う者もいない。朝8時過ぎには工場中の機械がフル活動する。
紀子もマゴマゴしてはいられない。出勤台帳と売り掛け課金の帳尻合わせをしなければならない。この帳尻合わせを間違えると黒字倒産の危機さえ起こり得るのだ。その他、入庫や出庫伝票などのチェック、経理事務と言っても高校を卒業したばかりの紀子にとっては何もかもが未体験で学ばなければならない事は山のようにあった。
その忙しさが逆に母との別離の寂しさを忘れさせてくれた。
商業高校出身の紀子は算盤2級、書道3級の資格を取得しており経理事務の仕事には最も適しているとも言えた。
スリムで愛苦しい紀子に近づきたくて工員の誰もが彼女に声をかけて来た。社交辞令的な微笑みは返したが、それ以上の接触は避けた。
紀子の勤務時間は午前8時から午後5時までで、後は簿記学校に通い始めた。午後6時半から9時半までが授業時間で、学校に行く前に急ぎ夕食を食べてしまう。そんな彼女に異性との交際に時間を割いている暇はない。
箱根の旅館に努め出した道子もまた多忙を極めていた。旅館脇の職員寮で起き出すのは朝5時半、自分の朝食と身支度を調え仕事に就くのは午前7時。客の布団上げに始まり、朝のお善出し、朝食の後片付け。客の送り出しと会計それが済むと11時半頃になって何とか一休み。
12時に昼食その後1時間ぐらいの仮眠が何とか取れる。
でも、その様な仕事のスケジュールに身体が馴染むのには少なくても数ヶ月はかかる。それまでは仕事の要領がつかめず、仮眠どころではなく、先輩女中に嫌味を言われるばかりの日々が続いていた。それでも耐えるしかない。他に選択肢がないのだ。娘の紀子だって一人頑張っているのだと思うと逃げ出す訳には行かない。
道子もまた悪戦苦闘していた。
昼間の仕事も充分に慣れない内からの夜学は相当に辛い。眠気との戦いである。少し難しい話になると何時の間にか寝てしまう。
明日に続く
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