中沢家の人々(17)

「紀子さんは、どう思うの?」
「はい、私は工場の経理事務の仕事もありますし、夜学もありますから、何ともご返事のしようがありません」
道子は、この清吉と云う青年に純な男の姿を見た。今までの自分の人生の中でも、これ程まで誠実な男に出会った事がない。もしかすると清吉と云う男により、紀子の人生は大きく切り開かれて行くかもしれないとも考えた。そんな気がしてならない。そうだとすれば夜学などに通う理由などない。
簿記1級や税理士などの夢を見ても、とても実現するとは思えない。簿記2級までは何とか1年掛かりで手に入れたが、そこからは厚い壁が立ち塞がっていた。とすれば誠実で働き者の男性と結婚するのが最も現実的な幸福への道ではないか。そんな事を道子は自分一人の頭の中で考えては堂々巡りしていた。そして道子は口火を切った。
「紀子ちゃん、昼間は工場で経理事務の仕事をして、その後は夜学まで通い簿記2級まで取った根性には、お母さんも頭が下がる。歯をくいしばって色々な資格を取るのも大事だ。しかしそれだけで人間が幸せになれる訳ではない。本当に愛する人がいて、一人では出来ない事を二人でやって行くのはもっと幸福な道かもしれない。あんたにも言いたい事は山ほどあるだろうが、夜学に通うよりは別の人生選択もあるかもしれない。中途半端な生き方には中途半端な人生しか得られないかも…あんたもお母さんの人生を見て考える事は一杯あるでしょう!…裏切られる事が多い人生かもしれないけれど、誰も信じられなくなったら自分自身をも信じられなくなると思うの、そうしたらどうなる?
自分で自分を信じられなくなったら後は死ぬしかないでしょう。私は箱根旅館の女中をやりながら何故頑張って来れたと思う。本当に愛した前の夫の子供、紀子ちゃんがいたからこそ頑張って来れたのよ。
私の最も愛する我が子、紀子ちゃんあなたにはどうしても幸せになって欲しい。愚かな母親の戯言かもしれないけれど…
一人で勝手な事ばかりを言って申し訳ありません。先生はどう思われますか?」
「そうだな、確かに紀子さんには夜学以外の別の人生を考えても良いかもしれない。女が自分一人で生きて行くには、まだ辛い世間だ。結婚と云う選択も充分に考えるべき道ではあるだろうね。どうだい清吉さんと少し付き合ってみたら。清吉さん、あんたはどう思う?」
「どう思うと言われましても今日、初めてお会いしたばかりですから…」
「そりゃあ、その通りだがこれも一つ縁だ。料理の腕前を磨く事も大切だろうが、それだけでは人生に潤いがないだろう」
「先生のお話しは、ごもっともですが私はまだ半端な料理人で修行中の身です」
「相変わらず清吉さんは堅いね!…料理の味付けにも潤いが必要だとは思わないかね。人間には多少の余裕も無ければ本物の料理人にはなれないと思うんだがね!」
清吉は恥ずかし気にうつ向いて、
「先生がそこまで仰るならお言葉に従います」と、答えた。
「紀子さんは、どう思っているの?」
「私は夜学に通う事にばかり気を取られていましたが、先程の母の話にもありました様に夜学に通う事だけが自分の人生ではないと少し考え直しました。
清吉さん、こんな私で良ければどしどし躾て下さい。」
清吉は驚いた様な顔をして、
「躾けるも何も俺自身が未熟な人間だ。紀子さん、こちらから宜しくお願いするだけです」
明日に続く
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