中沢家の人々(26)

貞雄の脳外科手術は二度に渡って行われた。意識は入院後1カ月近くは戻らなかった。その間は人工呼吸器の世話になるしかなかった。医者からは幾度ともなく生命の危機説を聞かされた。清吉と紀子は貞雄の葬儀の話しばかりをしていた。
しかし1972年3月末、貞雄は奇跡的な回復をした。3月28日には両眼が開き周囲を少し見回す様になり、翌29日には人工呼吸器も外された。
東京でも桜の花が満開の時は貞雄の食欲も少しずつ改善して来た。その間も清吉は火災に出会った大久保の両隣に幾度と無く見舞いの挨拶をしに行った。
2月中旬にまた100万円ずつを持参した。しかし今度は前の分も含めて夫々に200万円ずつの領収書に署名捺印をしてもらって置いた。布団屋の親父の件があるので後々の問題を残さない為である。
布団屋の店は築10年ぐらいで火災保険にも加入していた。しかし相当にがめつく在庫布団の損失補填、店の休業保証その他を限りなく要求して来た。さすがの清吉も自分一人の手では負えなくなり弁護士に任せた。
その逆隣りの菓子屋は築40年以上はたっていて坪20坪ほどの今にも潰れそうな建物だった。亭主も子供も無く、細々と子供相手の駄菓子屋を営んでいた。清吉はむしろ、この老婆の行く末が気に成った。
一方貞雄の方は元気に回復し、寿司が食べたいの、うな重が食べたいなどと言いだした。総合病院の最も高い特別室にいたので普通の病室よりは無理が聞いたし、多少の持ち込みも大目に見ては貰っていた。しかし五分粥がやっとの貞雄に寿司やうな重が食べられる訳がない。
それでも時に、うな重の断片や刺身の細切れを食べさせてみる事もあった。そんな清吉を見て紀子はつくづく言った。
「あなたって、誰にも優しいのね」
このアル中の火災事故で蒙った経済被害は幾らになるのか計り知れない。隣近所に支払う火災金額の保証だって幾らになるのか検討もつかない。それなのに1日に2万円もする特別室に入院させ、5分粥がやっとだと言うのに寿司が食べたいの、うな重が食べたいのと言っている。それを特別室であるのを良い事に隠れて少しずつ食べさせている。私にも限りなく優しいが、この人の優しさは天性のものかもしれない。新大久保の本店の支配人、仲道さんには今でも師弟の関係を崩そうとは決してしない。さすがに仲道の方からは「清吉さん」とは呼ばず、近頃では「社長」と呼ぶ様になって来たが…
それでも清吉の方からは昔変わらず彼を師としての対応で接している。
次回に続く
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