中沢家の人々(27)

今日の「ことぶき」の繁栄は仲道さんを無くしては考えられないと清吉は思っている。だから今でも彼を師と仰いでいた。
しかし仲道にとっては自分はただの脇役にしか過ぎないと思っている。
「ことぶき」の繁栄は社長である清吉の努力の賜物であると信じて疑わない。料理研究に対する執念、使用人たちへの労り、カリスマ的な決断力、その謙虚さ、自分などいなくても充分に「ことぶき」の今日の活躍はあったと思える。
それにしても仲道を師と仰いでいる以上、彼の厚遇は格別である。通常の板前に支払う給与の3倍以上は与えられていた。
仲道は何度も拒否した。
「仲道さんは、このことぶきグループの副社長だ、この程度の給与は当然でしょう」
と清吉に言われると返す言葉も見つからなかった。
1972年4月末には大久保の火災事故の話し合いもつき、5月中旬にはやっと新橋店「ことぶき3号店」が何とか開店に漕ぎ着けた。
火災騒ぎや父親の病気で新橋店の開店は2ヶ月近くも遅れてしまったが、無事に開店出来ただけで幸福だと思うしかない。
この年の前半は不運続きだったが、新橋店は開店早々から客足は好調だった。新橋店の店長は仲道に次ぐ古参の板前、川崎が選任された。清吉が21才で未だ紀子と知り合う前に19才で新大久保の「ことぶき」で働き始めた若者であるが、その彼も31才になっている。仲道と清吉の許で、しっかり板前修業を積んだので今や何処に行っても花板が務まる。
29の年に結婚し、生後8ヶ月の男の子までいる。そこの部分だけ清吉に少しばかりの嫉妬心を抱かせるが、それと店長の資格とは何の関係もない。ただ清吉の愚にもつかない想いである。
紀子と相思相愛で結婚したにもかかわらず未だ子宝に恵まれないと云うのは運命の悪戯としか考え様がない。そんな想いで仲道は清吉と紀子を見ていた。
この清吉と紀子のお見合いの席から、積極的に後押ししていた仲道にとっても、この二人に子供が出来ないと云う現実に心穏やかならぬ想いを抱いていた。
箱根で旅館の女中奉公を続けている紀子の母親も、若い夫婦に何時までも子供の出来ない事実に限りない不安を抱いていた。
自分自身が10年以上も妾奉公をしながら子供に恵まれないばかりに妾奉公を続ける事が出来なくなった事実を道子は痛いほど感じている。
「孫が出来れば娘夫婦と同居しても良い」
と冗談交じりに語っていた道子であるが、現実は冗談事ではなくなって来た。もちろん彼等は紀子の母体としての決定的な身体上の欠陥を知らない。夫婦以外の誰も知らない事実である。
これだけ事業拡張が成功した家系では後継者の問題は、一般家庭では理解出来ない大きな罠となる。
次回に続く
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