中沢家の人々(41)

この7人の企画開発部を会社内では、黒澤明監督の映画から捩って「7人の侍」と呼ばれた。
しかし、そんな中にも不慮の事故は続いた。1980年3月には伊豆の病院から貞雄死去の報告がなされた。さすがに、この事実は清吉に報告しない訳には行かない。何年かぶりに夫婦同席で伊豆に向かった。紀子はお抱えのベンツで出かけた。少しばかり清吉が驚いた。自分が知る紀子とは全く違う堂々たる女社長の姿がそこにはあった。紀子37、清吉41の春間近の時候である。
「お父さんは8年近くも伊豆の病院にいたのね。肝硬変から肝臓癌に移行したらしいって病院の先生が電話で仰っていたわ!…貴方は知っていらしたの?」
「いや、俺は何も聞いていない。今はじめて知った話だ」
「それじゃあ何年もお見舞いに行っていないのですか?」
「まあ、そう云う事になるな」
と、さすがに清吉も恥ずかしそうに顔を少し俯けた。
「それはそうと、翔太くんは元気。確か1才半ぐらいになるのかしら、さぞや可愛いらしいでしょうね。私も一度ぐらいは抱っこしてみたいわ」
と、冗談とも嘘とも分からない言われ方をされ清吉は背筋に氷つく様な寒さを感じた。
紀子を清吉をからかった訳ではない。もし自分との間にそんな子供がいたら、さぞや可愛いらしい生活があったかもしれないと思っただけである。
清吉は何も答えなかった。ただ紀子の凄みだけを感じ、今や自分が紀子の足元にも及ばない存在となってしまった現実に目覚めただけである。
一体、何処でどう間違えてこんなにも惨めな状況に追い込まれてしまったのか、今更ながら己の分別の無さを恥じた。紀子は清吉のそんな自責の念は知らず
「やはり伊豆の空気は澄んでいるわ、風が気持ちいいですもの。やはり8年前と比べると道路事情も良くなったし、貴方と久しぶりのデートだったり、あら御免なさい。お父さまの病院に向かっているのに随分と不謹慎な話になって!」
その時に前のドライバーが
「社長、後30分程で着くと思います」
と言って来た。社長と言われ清吉は自分の事と最初は錯覚したが直ぐに、それは紀子に言われた事だと自覚した。こんな錯覚にも自己の置かれた立場の落差を感じずにはいられない。午後1時には伊豆の病院に着いた。貞雄は安らかな顔で霊安室に安置されていた。紀子は次から次へと采配を振るっていた。
担当医と看護婦には充分な礼を述べ
「遺体は取り敢えず東京の自宅に引き取らせて頂きます」
と口上を述べた。その合間にも、途中の公衆電話から紀子は仲道に矢継ぎ早の指示を出した。
葬儀は青山葬儀所で行う事、喪主は清吉にするとも告げた。どのような道楽息子であれ当然の事であろう。墓地は青山墓地の一角を必ず手に入れる事、「ことぶき」の暖簾をかけた墓地の広さを確保する事など、自分の女社長としての威信をかけていた。未だ3月と云う季節なのでドライアイスもそれ程の必要性はなかった。霊柩車は最高級のものを注文した。
次回に続く

関連記事

コメント