中沢家の人々(43)

始祖と云う紀子の言葉に清吉は、素朴な疑問を抱いた。
「何故あの親父がことぶき店の始祖となるのか?」
そんな清吉の疑問を打ち消すかの様に紀子の挨拶は続いた。
「戦後まもなくバラック小屋同然だった、ことぶきを新大久保の地にたった一人で大工職人の名人と言われた義父が釘一本も使わず、木組みと云う伝統的な工法で作り上げたのです。その新大久保店も今はかなり増改築が進み、当時の面影を残してはいませんが、しかしその魂は残っています。
その義父が旧新大久保店を作り上げたのは1954年3月でした。年こそ違え本日と同じ3月です。これはただの偶然でしょうか?…私には義父の魂が蘇った様に思えてなりません。自分が丹精を込めて作った、ことぶき店をこれからは私たちの手でしっかりと発展させて欲しいと、あの世から温かく見つめているのです。その様な義父の魂に守られながら、ことぶき店はより拡大させながら少しでも多くの方々に日本料理の真髄を味わって頂けます様に職員一同と共に懸命な努力を重ねて行く所存でおります。これからもご愛顧の程をよろしくお願い申し上げます。本日はお寒い中にお集まり頂き誠に有難うございます」
「これが自分の妻だった紀子か?…死者に贈る餞けの言葉として、これ以上に相応しいものはないではないか!」と、
余りに感動的な挨拶に清吉は己の存在価値をすっかり失っていた。
里美はまた彼女なりに考えこんでしまった。
「何と素晴らしい女性なんだろう。それに比べ清吉は一体何なのだ。毎日ゴルフばかりやっている唯の遊び人では無いか」
里美の心の中では清吉の影が薄くなり始めた。
仲道や川崎も紀子の挨拶には感動していた。彼等の目には清吉その者が入らない。路傍の石の一つでしかなかった。
紀子の指示に従い仲道や川崎らが懸命の努力が実り、何とか青山墓地の一角に財界人や芸能人に劣らぬ広さの墓地を入手する事が出来た。
ここに「中沢家の墓所」が貞雄の一周忌直前に完成し壮大な法要が取り行なわれた。4平米もの黒御影石に中沢家の墓所と銘され、始祖中沢貞雄(俗名)が眠ると墓石の横に書かれてあった。
当然の如く、この儀式には清吉も招かれた。ことぶき店の職員も全てが呼び集められた。
3月17日を「始祖の日」として全店閉業、幹部職員の総てが毎年墓参に来る事が義務づけられた。
唯この一周忌だけは全職員に墓所開所の席に着く様に指示された。この他を圧倒する中沢家の墓所を全職員に見せつける事により、中沢家が如何ほどのものであるかを誇示して全職員の士気を鼓舞する事が紀子の目的であった。その間にも中野に4号店が完成され、上野に5号店が建築中であった。
開所式の最前列に立たされた清吉は言葉もなく、横に並ぶ紀子の操り人形でしかなかった。
晩年はアル中で何処で野垂れ死しても不思議ではない貞雄が、紀子の手で中沢家の始祖に祭り上げられたのである。
次回に続く
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