中沢家の人々(48)

「ところで先生、クモ膜下出血と云うのはどんな病気なのですか?…そんな突然に来る病気なのですか!」
「先ずはですね、人間の脳細胞は3枚の膜で保護されているのです。外側、つまり頭蓋骨のサイドから見て行きますと、硬膜、クモ膜、軟膜と呼ばれる3枚の膜がありまして、真ん中のクモ膜と軟膜の間に出血したのが俗に言うクモ膜下出血です。問題はクモ膜下出血が発症した直後には、出血巣がクモ膜と軟膜の間に限局しているのですが、病気の進行と共に出血巣が軟膜を突破して、丁度大洪水で防波堤を水が突破してしまう様に脳室内全域に血液が拡がって行くのです」
紀子は更に尋ねた。
「先生、お話の内容は少しばかり分かりましたが、母は未だ59才ですよ、そんな年令でも脳出血なんか起こすのですか?
脳出血なんて云う病気はもっとご高齢の方の病気だと思っていたのですが!」
紀子は何か腑に落ちない気持ちで医師に質問を繰り返した。
「確かに、昔から言われています脳卒中、大きく分ければ脳出血と脳梗塞の好発年令は圧倒的に65才以上です。しかしクモ膜下出血は別なのです。何故かと言えば、クモ膜下出血の原因は脳動脈瘤の破裂によるものが多いからです。先天性の動静脈の奇形などでは30才ぐらいでもクモ膜下出血を起こす場合さえあるのです」
「すると母は脳血管の奇形があったのですか?」
「そんな単純な話でもないのです。30才代ぐらいの若い年代ですと血管の奇形が圧倒的に多いのですが、59才ぐらいですと何とも言えません。奇形以上に動脈硬化性変化による動脈瘤も考慮せざるを得ないからです。それ以外にも色々な原因はありますが…なかなか判断のしにくい所です」
「それで母は助かる見込みがあるのでしょうか?」
「極めて厳しいです。止血剤と脳圧亢進を抑制させる保存的な治療で何処まで出血巣を縮小出来るかが問題ですが、脳室内にこれ程までに拡がった出血を改善させるのは簡単ではないでしょう。脳動脈瘤の除去もしくは結紮を先ずは第一番目にすべきなのですが、全身状態が極めて悪いので脳外科的に開頭術を実施出来るか悩んでいる所です。
現に呼吸停止が来て人工呼吸器に頼っている状態ですから…」
「そんなに良くないのですか?」
と紀子は悲嘆にくれた思いで溜め息をついた。彼女の膝頭が微かに振るえていた。今更ながら悔やんでいたのだ。
「何故もっと早く母を自分の手許に引き取らなかったのか?」と、
3年前に母の励ましで何とか女社長として事業拡張に邁進して来たが、やはり何処かで母への甘えを捨て切れなかったのだ。
59才まで自分の母が何故、旅館の女中をし続けなければならなかったのか!…このまま母に死なれたら、何の親孝行もせずに私はずっと母に負い目を持ち続けながら生きて行くのであろうか…?
「お母さん、お母さん、お願いもう一度目を覚まして!」
紀子の悲痛とも言える呻き声だが道子の耳には届かない。
次回に続く
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