中沢家の人々(53)

仲道は畳の上に汗とも涙とも言えぬ雫の一滴を垂らしながら紀子を諌めた。
「一度でも社長と男女の関係になってしまえば、愚かな仲道は社長がもっと欲しくなります。そして、その様な関係は何時しか職員の多くに気づかれる事となるでしょう。社長と副社長の妙な噂は職場の雰囲気を悪化させます。そんな職場で働く板前たちを始め多くの店員が可哀想です。こんな愚かな男ですが、仲道は社長の為ならどんな苦労でも厭いません。しかし、それはあくまでも使用人としての立場に置いてです。今回の私の所業で社長がどの様に傷ついたかは百も承知しております。どの様な処分を受けても仲道は一切の不服を申し上げません」
紀子も何時しか涙声になりながら酔いも覚め、
「仲道さん、どうか手を上げて下さい。今夜の私はどうかしていたみたい。自分に甘えていたのね…仲道さん、こんな私を軽蔑しないで!」
「軽蔑だなんて、とんでもありません。むしろ社長の人間味をしみじみと感じさせて頂き仲道はより仕事に励みが出て来ました。社長がどの様な決断をなさって、お母様の病状がどの様に変わろうとも社長にとっては大きな試練となる事でしょう。
その試練を乗り越えて社長自身が一回りも二回りも成長なさると思います。使用人の身で出過ぎた言い方を、どうかお許し下さい」
仲道は頭を上げ紀子の顔を労わる様に見つめた。そんな仲道の顔をしみじみと見つめながら紀子は改めて彼の男としての大きさに感動を覚えた。
「仲道さん、有難う。貴方の忠告で私も迷いから覚めました。
母には手術を受けてもらいます…それが、どの様な結論になろうとも…仲道さんが言う様にそれが母の意志だと私も考えますから…」
ようやく紀子が迷いから抜け出し決意を固めた。
時に紀子37才、まだ女盛りである。仲道53、精神も肉体も頑強で年齢よりは7~8才は若く見えた。そんな二人が一時の欲望に負ける事なく明日への道を切り開くべく自己の情熱を燃やし続けようとしていた。
翌朝、ホテルでの朝食を済ませ二人が小田原の病院に着いたのは午前10時半だった。早速、脳外科の担当医に面談を申し入れた。15分程待たされ昨日の山中医師が説明に出て来た。
「母の病状はどうでしょうか?」と、
紀子が先ずは尋ねた。
「例え1~2割の可能性でも手術に掛けたいのですが」
と言った紀子の話に、山中医師は絶望的な表情を浮かべ、
「誠に申し上げにくいのですが、手術自体が不可能になってしまいました。昨日は一度持ち直すかの様に見えたのですが、今朝がたから急に全身状態が悪くなっているのです」
紀子は頭の中が真っ白になり…
「そんな馬鹿な、昨日は今日までは私の返事を待てると先生は仰ったじゃあないですか?」
山中医師は紀子の目線を少し外して、
「確かに私はその様に説明いたしましたが、しかし事情が変わってしまったのです」
次回に続く
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