中沢家の人々(56)

「社長、お願いですから少し落ち着いて下さい。私の顔を打たれても構いませんから聞いて下さい。仲道の出過ぎた行動は使用人の分際を遥かに超えていました事は重々承知しています。しかし、あれ以上のご質問は社長をただ苦しめるばかりだと思えてなりません。天に唾(つば)を吐く様な気持ちで、敢えて言わせて頂くならお母様の命運は最早、尽きたと考えるべきではないでしょうか!…決して軽々しい言葉を並び立てている訳ではありません。人にはそれなりの運命と云うものがあるのではないでしょうか?…そんな思いで申し上げているのです」
紀子もやっと冷静さを取り戻し、一呼吸入れて…
「仲道さん、その通りね。昨日から私は心が乱れ放しみたい。
でもね、母との別離を考えると哀しいくらいに平静ではいられないの…ごめんなさいね、意味もなく涙が止まらなくなるの。
気持ちでは分かる事と涙が抑え切れない事は別なのよ」
そう言いながら紀子はハンカチで次から次へと溢れる涙を懸命に押し隠そうとしていた。
仲道は言葉もなく紀子の前で立ち竦んでいた。そんな二人の上を梅雨の小雨が降り注いでいたが、傘を差す事も忘れ病院玄関先でタクシーを待っていた。
その5日後に道子はその生涯を閉じた。長かったのか短かったのか59年の歳月は幕を下ろしてしまった。
義父、貞雄の葬儀と比べ紀子は何の指示も出せずに、ただ泣き明かしていた。そんな紀子を労わる様に仲道が葬儀の手配を指図した。紀子の思いを汲み葬儀は密やかに紀子と仲道、川崎の3人だけが新大久保の自宅に集まり通夜の一日を過ごした。
それ以外の誰も呼ばなかった。夫の清吉さえも…
しかし箱根の女将だけはやって来た。小田原の病院から霊柩車で新大久保の自宅に着いた時に
紀子はしみじみと語った。
「お母さん、やっと私の所に帰って来たのね。お母さん、本当に有難う。紀子はお母さんの娘として生まれた事を心より感謝しています。お母さん、お母さん、私のお母さん…!」
後は言葉にならなかった。紀子のそんな姿を見て誰も何も言えず、ただ哀しみの色に染まっていた。
道子の墓は埼玉の平林寺に建立(こんりゅう)された。人目に立たない小さな墓であった。紀子の娘時代に、紅葉を見に道子と幾度か訪れた場所である。
当時38才の道子と16才の紀子が自分達の将来に限りない不安を抱きながら、平日のひっそりした境内を手を取りながら散策した禅寺であった。
そんな哀しみを乗り越え、紀子は社長業の本来の仕事に邁進して行った。上野5号店が2ヶ月程遅れ1981年7月にようやく開店した。開店前から「ことぶき」の噂は高く、開店後2ヶ月にも満たない9月には予約が殺到し、年内一杯は予約の全てが埋め尽くされていた。10月には6号店の建築が品川で順調に進められていた。紀子の事業拡張の野望は加速化して行った。それからは一年に一店舗づつ店が拡げられて続けた。
次回に続く
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