中沢家の人々(61)

ともかく先ずは新橋店に行ってみよう。
1982年7月初旬、未だ梅雨の明け切らない曇空の鬱陶しい日の夕方、清吉は何気ない顔で新橋店の暖簾を潜(くぐ)った。
先ずは生ビールに刺身の盛り合わせを注文した。午後7時過ぎだが川崎の姿は見えなかった。
清吉は少し気になって、近くにいる店員にそれとなく…
「店長は休みかい?」と、
尋ねてみた。清吉にとっては一面識もない24~5才の女子店員だが応対は良かった。
「今日は本店で会議がありますので、少し遅れますが午後8時頃にはお見えになると思います」
との返事だ。職員の教育もなかなか行き届いていると感じたが、一方では果たして紀子がこれだけ完璧に仕切っている店に自分がどんな顔をして立ち入る空間があるのか、清吉は改めて逡巡(しゅんじゅん)した。
午後8時過ぎに川崎は店に出て来た。店内を歩きながらも川崎は笑顔を絶やさず、
「いらっしゃいませ、いつもご贔屓(ひいき)に有難うございます」と、
客の一人一人に丁寧な挨拶をしながら店の奥に入って行った。
清吉には気付かなかった。
だが川崎の10年間の成長ぶりは何と見事だろう!…何処からみても貫禄充分の店長振りだ。
それに比べ清吉は己の無為に過ごした10年間を心から恥じた。そんな彼の姿を見て清吉は怖じ気づいた。何を頼み込んだら良いのか言い淀むばかりであった。
注文した生ビールの中ジョッキ1杯を飲み干し刺身もほぼ食べ終えた所で清吉は、このまま帰ろうかと思っていた。とても川崎を口説き落とす自信はない。
そんな迷いの最中に前掛けを締め直した川崎が店の奥から出て来た。清吉の生ビールが飲み干されているのをいち早く見つけ「お客さん、他に何かお飲みになりますか?」
と、清吉に声をかけて来た。正面から清吉の顔を見て川崎も、そこに座っている客が誰か始めて気付いた。彼は驚いて、
「社長、社長じゃあないですか!…お懐かしい、相変わらずお元気そうで。そんな所に座っていたんじゃあ一体誰だか分からないですよ。奥の方に上がって下さいな…他人の家でもあるまいし。お~い、誰か奥の座敷を用意するのだ」
と川崎は、屈託のない笑顔を清吉に向け奥座敷に自分から案内した。清吉は完全に気を呑まれた格好で川崎の後に従った。奥座敷は8畳間の個室であった。
「いゃあ本当にお懐かしい!
積もる話は山ほどありますが、何からお話ししていいか途方に暮れます。まぁ、それはさて置いて飲み物は何にします。久保田の万寿、美味しい酒が入っていますがどうですか?」
「久保田か、良いね!…それでは言葉に甘えて2合だけ貰おうか」
「分かりました、直ぐに用意させます。お~い誰か、久保田の冷えたやつを2合頼む…」
と景気よく個室の外に向かって声をかけた。
次回に続く
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