中沢家の人々(64)

里美は清吉の弱々し気な答えを受けて、
「ことぶきに頼らず、何処か別の料理屋で板前として新しく出直すって方法はないの?」
と、清吉が考えた事もない質問をぶつけて来た。一瞬言葉に窮したが、直ぐに言い返す。
「馬鹿を言え、新人の板前で幾らの給料が貰えると云うのだ。
精々(せいぜい)30万円が良いとこだろう。そんな金でどうやって暮らすのだ?…30万円の給料じゃあ貯金は減るばかりで今と余り変わりがないし、それとも30万円だけの金で生活するなんて事が俺たちに出来るのか?」
そう言われて里美は少したじろいだが、直ぐに反論した。
「清ちゃんがゴルフを止めて仕事に専念すれば、それだけで月に50万円以上の節約にはなるわ!…それにゴルフの会員権も処分すれば何千万円かのお金は戻って来るじゃあない。板前で勤めるのが嫌なら、そのゴルフの会員権を売却したお金で小料理屋でもやれば良いんじゃあない。何でも「ことぶき」に頼ろうとするから道が開けないんだと思うけど…」
何時から、この女はこんなにも頭が回る様になったんだと清吉は思わず感心してしまう。
やはり子供を持つと女は強くなると言うが、この里美の変わり様はどうだ。知り合った時は、あんなに愛くるしく俺と一緒にゴルフ場を跳ね回っていたのに、今ではそのゴルフまでを俺から取り上げ様としている。
清吉は嫌味ぽっく里美に言葉を投げ返した。
「俺がゴルフを止め、幾つかの会員権を売却すればお前の言う通り、小料理屋を開く元手にはなるだろう。しかし俺一人だけで板前の腕を振るうと云う訳には行かないぞ。お前だって、そんな小料理屋で夜遅くまで俺と一緒に働く事になるが、その覚悟があって言っている事か?」
清吉の的を得た質問に里美は、しばらく言葉を失った。清吉にはどうやっても働いて貰わなければならないが、自分までもが一緒に働かせられるとは考えてもみなかった。薄汚い小料理屋で、浮浪者まがいの酔っ払い客を相手に媚びを売って酌をして回るなんてのは、考えるだけで鳥肌が立つ。何で自分がそんな思いをしなければならないのだ。清吉の子供を産みさえすれば、一生安穏に暮らせると信じたからこそ16も年上の清吉の囲い者になったのではないか。
「それを今更、何だ!…小料理屋で働けとは」
まるで話が違うではないか。そんな小料理屋で働くぐらいなら未だ高級クラブ「葵」で働く方が、どれだけ楽な事か!
小料理屋の話は里美から言い出した事だけに、何処にぶつけて良いのか分からない怒りと不満が自分の胸の奥に、どんどんと澱(おり)のように溜まって行った。
清吉との生活も潮時に近いかもしれないと、里美は少しずつ感じ出した。自分は未だ27才である。新しい生活をやり直すなら、この当たりが最後のチャンスかもしれないとまで考えた。
しかし、3才の翔太はどうすれば良いのだろうか!
次回に続く
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