中沢家の人々(69)

9月16日、翔太4才の誕生日。
ケーキの上に立てられた4本のローソク、昨年は一人では消せずパパの手を借りたが、今夜は上手に消せた。幼子は日々成長して行くが、その父と母の心の軋轢は日々増して行く。
清吉との溝が深まるにつれ里美は翔太の存在が重荷になって来た。如何に27才とは言え、子連れでは新しい職場を探すにも限りがある。水商売に戻るにしても、午前1~2時に終わるのが普通の職場だから、保育園に預けると云う訳にも行かない。
翔太は4才の可愛い盛りだが、子供の事より自分の将来に限りない不安を感じている以上、母性だけでは生きて行かれない。
もともと里美は九州の福岡出身である。里美の母は彼女が5才の時、下の弟が難産で何とか産み落としたものの、その後の肥立ちが悪く母とは死別となってしまう。
その弟も2才で流行り病に罹ったが医者に診せる金もなく、その小さな命はあっと言う間に消え去った。
父親は炭鉱夫で1963年11月9日の三井三池三川炭鉱炭じん爆発で、朝出かけたまま嘆き悲しむ間もなく帰らぬ人となった。
458人もの死者を出した戦後最悪の炭鉱事故で、里美は8才で孤児になり親戚中を盥回(たらいまわ)しにされた挙句、孤児院に入れられた。
父親の炭鉱事故による、僅かばかりの見舞い金欲しさに寄ってたかって里美の保護者面をした親戚たちが8才の少女を利用するだけ利用した結末である。
幼い少女には自分の身の不幸を理解出来ず、ただ大人たちへの不信感だけが深い心の傷として残された。義務教育を終えた15才の春には、造り酒屋の京都伏見に女中奉公として勤め出した。休日は月に2日しかなく朝早くから夜遅くまで働き詰めだった。冬場は手があかぎれに成るまでこき使われた。
18才の秋、手伝いに来た杜氏(とうじ)の一人に手篭めにされ、僅かばかりの貯金を持って泣く泣く店を遁走した。40代後半のニヤついた杜氏の顔が何時までも頭から離れず、当時の里美には恐怖心だけが募った。
ともかく無我夢中で東京に出た。東海道新幹線が開通して9年目の11月である。初めての東京で田舎者よろしく、何処をみても目がキョロキョロするばかりで、全く見当もつかない。
駅で新聞を買い求め、求人欄を必死に見る。ともかく駅近くの喫茶店に入り、コーヒーを飲む時間ももどかしく赤ボールペンで求人欄をなぞりながら、住み込みあるいは寮付きの職場を懸命に探す。手持ちの金は1万2千円と郵便貯金が15万円あるだけだ。何が何でも職を探さなければ生きる術がない。池袋のパチンコ屋に寮付きの店員募集の広告欄があった。
早速そのパチンコ屋に電話をかけてみる。40才代ぐらいでダミ声の中年男が電話の向こうでがなり立てている。パチンコの音がうるさく、よく聞こえない。
「な~に、女の子か?~女の子の寮はないんだ。通いなら雇っても良いんだけど」
と言った意味だけは何とか分かった。寮がないなら仕方がない。もう一度求人欄に戻って目を皿の様にして探し始める。
次回に続く
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