中沢家の人々(77)

こうして二人は、そのまま別れた。
里美は一度アパートに戻り、定時制の高校に出かけた。高校に通い始めて1ヶ月ちょっとになるが、何もかもが珍しい。中学を卒業して3年ぶりに又、国語や数学などを学ぶのは新鮮さを感じる。教師の教え方も丁寧で分かりやすかった。
これまでの学校教育と決定的に違うのは、年齢差がまちまちである事だ。里美のクラスは30名だったが生徒の年齢は16才から40才までと、かなり離れていた。経済的事情とか登校拒否とか病気が原因だったりとか云った、幾つもの複雑な理由が絡んでいる。
親もいたり、いなかったりと色々で社会の歪みの一部が定時制高校に投影されていた。それでも学ぶ者は学び、途中から大検の資格を取って弁護士や上級公務員試験に合格する者も時には見られた。
5月生まれの里美は、18才で定時制高校に通い始め、すぐ19の年を迎えたがそれ程には年令が上とは言えなかった。
ともかく学ぶ事は楽しかった。
何より朋子の影響が大きかった。学校で分からない事があってもアパートに帰ると朋子が優しく教えてくれた。正に実の姉以上の存在だった。
「これは徒然草と言って、兼好法師と呼ばれた人が鎌倉時代末期に書いた随筆集なの、まぁ~その時代の批判を書いた物として受け取られているのかな」
と言った具合に解説してくれた。朋子も里美に学校の勉強を教えるのを面白がっていた。
二人の共通の話題としても、これ以上のものはなかった。
しかし、そんな生活も秋ぐらいまでしか続かなかった。朋子も大学4年の秋を迎えては自分の進路方向を決めかね気持ちの動揺を抑えかねていた。
朋子はすでに大手旅行会社のツアーコンダクターとしての仕事が内定していたものの、高山の親がその様な就職を決して許さなかった。何が何でも高山に帰り旅館の女将になる様にと、きつい催促だ。
当初、朋子はそんな親の意向を無視するつもりでいたが、それなら首に縄を付けても田舎に連れて帰ると言われ、ほとほと参っていた。ともかく父親も母親も、これ以上は東京にいる事は絶対に許さないの一点張りである。
「大学に行かせたのも、娘の最後の我が儘を許したに過ぎない。後は高山に帰って旅館の女将になる約束ではなかったのか!」
と、両親揃って強い口調である。週に一回はそんな電話があって、朋子もここの所は少しノイローゼ気味だ。
それやこれやで、12月始めには朋子も両親の矢のような攻撃に屈服してしまった。来3月の卒業後には岐阜の高山に帰らなければ、どうにもこうにも親が納得しそうにない。
そうなると里美にとっても他人事ではなくなる。朋子との同居生活に終止符が打たれてしまうからだ。後3ヶ月以内にアパートを探すか、寮の付いている職場を見つけかの選択が必要になって来た。
次回に続く
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