中沢家の人々(87)

色々と考えた挙句に里美は産婦人科の門を叩く。生まれて初めて訪れる産婦人科で里美は極度の緊張感に包まれていた。待合室にいる女性の多くは皆、自分よりは何才か上に見えた。1時間近く待たされてナースに呼ばれる。医師の診察は直ぐに終わった。無表情に医師が説明する。
「おめでたです。出産予定日は3月30日となりますが、ここで出産しますか、それとも田舎で出産しますか?」
と聞かれたので、
「家に帰って主人と相談します」とだけ、
里美はやっとの思いで答えた。彼女の頭は真っ白だった。そのままアパートに戻り、布団を引いて横になった。何もする気にはなれない。夜になって水沢が帰って来た。部屋の電気は消され小さな豆ランプだけが微かに灯っている。
「あれ、里美はいないのか?」
と言いながら彼女の寝室を開けた。布団の中で横になっている里美を見つけ、
「何だ、どうした。こんな時間から寝ていて!…風邪でも引いたのか?」
と、水沢が布団の脇に寄って来たので、里美は渋々と起き出し
「電気を付けてもらっても良いかしら!…少しお話しがしたいの」
と、暗い表情で話しかけて来た。
「何だ、何だ、どうした。大変な話しか?」と、
水沢も幾らか驚いた顔で里美の隣に座って来た。
里美は水沢の顔を真っ直ぐに見つめ
「今日…病院に行って来たの、そしたら赤ちゃんが出来ているって言われたの、どうしたら良いと思う?」
水沢の少しの表情も決して見逃さないと云う里美の視線だった。
「何だって、赤ん坊が出来たって。それは、本当の事か!」
驚きと云うよりは打ちのめされたかの様な態度である。
「別に驚く事もないでしょう、先生の子供である事に間違いはないんだから」
「まあ、それはそうだが急な話しでビックリしたんだ」
「どんなにビックリしても構わないけれど、この先の事はどうするの?」
「どうするって言われても急には考えもまとまらないだろう」
水沢は明らかに逃げ腰だった。少なくとも里美の目には、そう映った。
「ともかく産んで良いのか、それとも堕して欲しいのか、話は二つに一つしかないでしょう」
「確かに理屈はそうだが、どんな結論を出すにしても心の準備ってものがあるだろう」
「どんな準備なの?」
「今日はいやに荒れているな」
「それはそうでしょう、お腹の赤ちゃんはどんどん大きくなって行くんだから!…もしかしたら何の自覚もなく、ただの遊びで私に手を付けたの?」
里美の射る様な視線を避けながら、水沢は辛うじて
「ともかく2日だけ待ってくれ、それぐらいなら大丈夫だろう…」
と言いながら、彼は里美に手を合わせた。その様子は教師としても、男としても全ての恥を捨て去ったかの様な印象を里美の心に深く植えつけた。
次回に続く
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