中沢家の人々(88)

2日たってから水沢は里美の前に40万円のお金を差し出した。
「これは何のお金?」
里美は訝し気に聞いた。
「情けない話だが、これが今の俺に出来る精一杯の金だ」
と、水沢は詫びる様に言った。
「だから、このお金は何なの!
赤ん坊を堕して来いって云う意味!…それとも手切れ金とでも言いたいの。ただお金だけ出されても何の意味か分からないでしょう?」
里美は厳しく水沢を詰った。
彼は頭を掻きながら、
「そんな言われ方をすると身も蓋も無いが、今の俺たちの状況で赤ん坊を産むなんて無茶な話だろうが…」
「それじゃあ、ただの遊びだったのね!」
「そこまで言う事はないだろう。俺だってこうやって誠意を示しているじゃあないか」
「こんなお金だけで、誠意を示したって胸を張って言えるの?…私がどうしても産みたいって言ったら、どうするつもりなのよ」
里美は目に涙を一杯溜めながら水沢を睨んだ。
彼は反論する言葉もなく畳の縁(ふち)をじっと見ていた。里美は更に追い討ちをかけるかの様に
「何故、黙っているの。ともかく、このお金でお腹の赤ん坊を堕して来いって言うのね!」
と熱(いきり)立って、水沢が差し出した40万円の金を鷲掴(わしづか)みにするや外に飛び出してしまった。日曜の夜も遅かった。
一度は興奮して外に飛び出したものの、何処に行く当てもなく公園のブランコで30分近くを過ごし少し気持ちを静める。
里美にしてみれば嘘でも良いから、一緒に頑張って子育てをしてみるかと言って欲しかった。結婚と云う言葉も頭の何処かでチラついていたのだ。
彼女だって今の状況では結婚など出来る訳がないのは百も承知している。それでも何かしらの愛情に満ちた言葉が欲しいではないか。金さえ出せば良いと云う考え、そのものが悲しかった。
そんな一時の怒りに駆られ飛び出して来たものの夜も更け、秋の風も身体に肌寒く心細さも増して来た。仕方なくまたアパートに戻る。水沢はテレビを見ていたが心配そうに里美の方に向き直り、
「今からお前を探しに行くか迷っていた所だ、身体の具合はどうなんだ」
と、優し気に声をかけて来た。
これ以上、水沢を責めても自分が惨めになるばかりだと思い直し、里美は何も言わずそのまま寝てしまった。
翌日は朝食を取りながら里美は
水沢に淡々と話をした。
「今日は病院に行って来ます。もしかしたら一泊や二泊は入院になるかもしれない」
と告げ、病院名と電話番号を書いた紙端を水沢に手渡した。水沢は黙ってその紙端を受け取った。朝8時50分には病院に着く。窓口で、このまま赤ん坊を堕す事は今日でも可能かと尋ねる。
次回に続く


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