中沢家の人々(93)

しかし、この様に何不自由のない愛の生活にも破局の訪れが待っていた。社会人として著しくバランスが欠如した自分達だけの愛の暮らしなどは、当然の如く何時しか綻びが目立って来るものだ。
人は何かを得る為には何かを失うのだ。大きな富を得る為には清貧さが失われて行く様に…時には純朴さも…
その意味で清吉と云う男は余りに不器用で、世の中を甘く見過ぎている傾向が強かったのかもしれない。
「ことぶき」と云う暖簾(のれん)を作り上げて行った努力には見上げたものがあった。料理研究にもよく精進していたし、父親にも妻にも、人間として真心を以って接していた時期もあった。
それが妻、紀子との間に子供が出来ないと云う事実の前で清吉は変わってしまった。そして紀子も変わった。可愛い妻から強い女へと成長して行ったのだ。
その一方で清吉は若い愛人との溺愛した生活の中で、身を持ち崩して行った。消費のみで経済活動を忘れた清吉の前に待っていたものは、若い愛人から清吉への不信の芽生えである。経済的不安が日々募って行く中で、里美が清吉への思いを愛から不信へと変化する心情を一体、誰が責めうるのか?
紀子から手切れ金の如く手渡された1億円の小切手は瞬く間に底が尽き始めていた。それでも一度膨張した彼等の生活は容易に縮小できず、不信の芽生えは愛の破局へと突き進んでいた。
里美は色々と思い悩む日が多くなっていた。「葵」のホステス仲間に電話をしたり、馴染みだった客の名刺を探し出しては、翔太と清吉のいない時間帯を狙って、あちらこちらへと電話をかけ雑談を装っては情報集めに奔走していた。
この5年の間にホステス仲間もかなり入れ替わっていたが、数名とは連絡も付いた。里美から電話を受けたホステス達は皆が一様に驚いた。
「まあ里美ちゃん、どうしたの。玉の輿に乗って、皆が羨ましがる生活をしているって思っていたのに!」
と、里美の愚痴を聞いた人達は口を揃えて言った。
彼女は涙まじりに、清吉が「ことぶき」の社長の座を失い、今や経済的にも社会的にも全く役に立たない男と成り果てている現実を誰彼かまわずに話していた。
「葵」のママも未だ元気で、里美のそんな愚痴を聞いて直ぐにでも戻って来る様に言ってくれた。銀座のみならず、六本木にも別の店を昨年から出しているから、出来たらその店で働いてもらいたいとの意向であった。
わずか2年余りで「葵」を辞め清吉と同棲してしまった過去の話には、全くこだわりを持っていない感じのママの対応だった。そんな事よりは実戦力としての里美を欲しがっている。
「里美ちゃん、何時帰って来ても良いのよ。貴女がいなくなってからは皆、とても寂しがっているわ!」と、
ママは甘く電話口で囁く。
そんなママの囁きに、彼女は職場での華やかな日々がしきりに思い出された。自堕落な生活から何時までも脱却出来そうにない清吉の後ろ姿を目の当たりにしては、より「葵」での生活が懐かしくなるばかりだった。
次回に続く

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