中沢家の人々(96)

もうこれからは、清吉などには頼らず一人で生きて行く決意を固めていたが、問題は一人息子の翔太をどうするかだ?
これまでは翔太の事が大きなハードルとなって一歩も先に進めなかったが、里美は母親としての道よりは女としての人生を選択する事にした。清吉への侮蔑が強くなると、翔太への母性も薄らいで行くようだった。彼女は一人、胸の中で言い訳を繰り返していた。
「どうせ女の身体は借り腹でしかない。あの人が子供が欲しくて仕方がないと言うから、ただお腹を貸してあげたに過ぎないのだ。私に産ませるだけ産ませておいて、男としての責任はまるで取れないじゃあないか?そんな男の子供を何故、この私が育てる必要があるのだ!」
そんな乾き切った理屈で自分を欺くかの様に里美は、11月26日の金曜日、翔太を幼稚園に送り出した後、「葵」のママと打ち合わせた通りに住み慣れたマンションから出来る限りの荷物を持ち出して、用意されていたトラックで煙のように引越しを強行してしまう。そして途中の公衆電話から先ずは幼稚園に連絡を入れ、
「中沢翔太の母ですが、急用が出来たので主人が午後2時には子供を迎えに行きますから宜しくお願いします」と告げた。
次はゴルフ場の清吉に連絡をつける。たぶん直接には電話が繋がらないだろうと考えていたが、ハーフをラウンドしてクラブハウスで休んでいると受付嬢が言う。
フロントの女性スタッフから
「ちょっとお待ち下さい。中沢さんは直ぐお出でになりますので」と言われ、
予期せぬ事態に少し戸惑ったが里美は心静かに、電話に出た清吉に…
「あなた、ゴルフ場にまで電話などしてご免なさいね。さっきお友達が交通事故で瀕死の重体だと教えてくれる人がいて、私はこれから病院に駆けつけるつもり…だから、こんな事を頼んで悪いんだけど、あなたが2時までに翔太を幼稚園に迎えに行って下らない、ねぇお願い!」
電話の向こうで清吉の嫌な顔をしている様子が目に浮かぶが、ここはどうしても押し通すしかない。
「参ったな、今日は絶好調のスコアで回っていたのに途中でギブアップか!…仕方がないな、分かったよ里美。俺が間違いなく2時までに翔太を幼稚園に迎えに行くから、お前は安心して病院に駆けつけなさい」と、
清吉は渋々に答えた。
「すいません、それでは後の事はお任せしますので…お願いね!」
この数日間、里美が頭で思い描いていた計画が全て予定通りに進んだので彼女は胸を撫で下ろし、待たせて置いたトラックに乗り込んだ。そのバッグには2千万円の預金通帳と印鑑が入っていた。あの一億円の小切手の最後の残金である。そして彼女は自分の新しいマンションへと移動して行った。
さらにマンションに着く直前には銀行から2千万円の預金を現金化していた。2日前には銀行に電話をかけ、今日の預金引き出しの段取りはすでに付けてあった。まるで怪盗ルパンを思わせる様な手際の良さである。
次回に続く

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