中沢家の人々(101)

「まあ、里美さんにも呆れた。しかし敵ながら天晴れね」と、
電話の向こうで紀子が微かに笑っている気配がした。
確かに、自分のこの愚かさは他人から見れば十分な嘲笑に値するのだろう。ましてや紀子から見れば妻を裏切った憐れな男の情けない結末でしかない。
「今更、何の用事だ!」
と言われてしまえば、それ以上に返す言葉もない。しかし紀子は、そうは言っていない。清吉の自虐的な思いが勝手な妄想を抱かせたに過ぎない。その証拠に紀子は清吉を労わる様に話を続けた。
「ともかく、あなたも十分に遊び疲れたでしょう。そろそろ自分の家に帰って来たら…」
「えっ!帰っても良いのか?」
「帰るも帰らないも、ここは自分の家でしょう!」
「紀子!…こんな碌でもない俺を許してくれるのか?」
「許すも許さないも、私は中沢の嫁です。そしてあなたは中沢の主人(あるじ)です。今も昔も変わりなく…」
「紀子!紀子!」
清吉は感極まって、男泣きしていた。
「馬鹿ね、泣いているの?
そんな事で男が泣いてどうするの!」と言いながら、
電話口から聞こえて来る紀子の声もまた涙ぐんでいた。続いて清吉が涙の乾き切らない声で、恐る恐る尋ねた。
「翔太は、翔太はどうする!」
「翔太くんは、あなたの子供でしょう」
「もちろん、そうだ!」
「それなら中沢家の子供でしょう。つまり今や、翔太くんは私の子供じゃあないですか。当然、私が母親になります」
「紀子、本当にそれで良いのか?そこまで甘えて良いのか?」
「それで良いのよ。もう夜も遅いから今晩はお互いに寝ましょう。明日は私も一日中、家にいますから翔太くんを連れて早く帰っていらっしゃいな」
「紀子、有難う。俺もまた生きる希望が湧いて来た」
「何を大袈裟な、それで明日は何時頃にいらっしゃる?」
「そうだな、翔太の幼稚園が終わった後の3時前には必ず帰るから…」
「それじゃあ楽しみに待っています。お休みなさいね、久しぶりにあなたの声が聞こえて嬉しかったわ」
「俺の方こそどんなに嬉しかったか!…お休み、紀子!」
時計の針は午前1時を指していた。清吉は久しぶりに心安らかな気分で翔太の横に寝た。
翌朝は6時に起き出し、翔太の弁当を作りながら朝食の準備をした。翔太はよく食べ元気そうだった。
8時半には幼稚園に連れて行く。昨日の雪はすっかり解け道路は乾き切っていた。北風は強く吹いていたが、清吉の心は春の日差しよりも暖かかった。
幼稚園から戻り、数日間の旅行に近い支度をした。ふと、幼稚園の事に思いが及んだ。
「そうか、翔太の幼稚園も変えなければならない」
と云う事実に突き当たったが、別に何と云う話でもないだろう。心に何の迷いも生じなかった。
次回に続く

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