中沢家の人々(108)

1983年4月1日、清吉は44才で再び「ことぶき」の社長に着任した。紀子が「株式会社ことぶき」を設立したのが1979年4月であったから、正式な意味では紀子の社長在職期間は満4年にしか過ぎない。
しかし清吉は34才の年から狂った様にゴルフにのめり込んでいたので、会社経営の実態は紀子が10年間も動かしていた事になる。つまりは30才の若さで紀子は会社経営の切り盛りを開始していたのだ。
もちろん、そこには仲道の大きな支えがあった事は言うまでもない。そして今や「ことぶき」グループは8店舗にまで拡大していた。新大久保、新宿、新橋、上野、四谷、品川、浅草、日本橋の各店舗で、一店舗当たりの売り上げは6億円近いものがあった。さらに銀座、池袋にも新しい店舗が建築中である。
清吉が「ことぶき」の経営を投げ出しゴルフにのめり込んで行った時点での「ことぶき」チェーンは3店舗であったから、紀子の経営手腕で5店舗を増やした事になる。
この数字だけを見ると、紀子の経営能力だけが優れている様に見えるが、その基礎的経営戦略はすでに清吉が敷き詰めて置いたものでないかとの解釈も成り立つ。もっとも如何に夫の基礎的戦略があったにせよ30才の女の細腕で、これだけの屋台を切り盛りして行くのは容易な技ではなかったであろう。それ自体が驚嘆に値するものではあった。
44才で再び社長の席に返り咲いた清吉は、10年前に比べ一皮も二皮も剥け人間的には大きく成長していた。毎日1店舗づつを見て回り、店により料理の出来映えや味付けに差はないか、接客態度の教育は十分に行き届いているか、店内の清潔度、衛生管理さらに照明器具や壁の飾り絵に至るまで細かく点検していた。
各支店を見回る時も社長然としてではなく、常に客の視点で店内を見回していた。だから店によっては社長の見回りとは気付かず、一客人として清吉に接する店もあった。そんな時には清吉は黙って料理の支払いを済ませて来たりもした。さすがに仲道や川崎が目を光らせている店舗では、一客人として素通りする訳には行かなかった。
店舗の見回り順は、清吉が殆んど面識のない浅草、日本橋、品川から始めた。開店して数年の店は店内も新しく職員の士気も上がっていたが、全体の動きが何かスムーズさに欠けていた。
特に客が押しかける夜の8時から10時までの時間帯が、魔の時間で、テーブルに着いた客に何時までも茶が出ていなかったり、注文ミスが続いたりと外回りの女子店員の動きが良くない。それ以上に連携プレーそのものが出来ていない。さらに店内はいつも客で溢れていたので、職員全体に少し驕り高ぶった気風も感じられた。客なんて頼まれなくてもやって来るもんだと云う、鼻に付くような習性である。この様な習性が組織末端に広がると何れの日にか巨大な組織と雖もの腐敗の兆しが現れる。
多分10年以上も社長の席に居続けていたら見えない事が、出直し社長の清吉には見えて来る事が多い。
次回に続く
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