中沢家の人々(115)

「葵」に通いつめ、里美へのプレゼントが増えるにつれ彼女も沼沢の存在を大切にしはじめた。それよりも店全体が沼沢を最上級の客と見なしていたので、里美も当然の如く店の方針に従うしかなかった。
たぶん沼沢が「葵」に落とす金は月に300~400万円以上ではあったろう。領収書の類いは一切請求しない。
「俺は領収書をもらって経費で飲み食いする様な、そんなケチな人間じゃあない」
と言うのが彼の口癖だった。お店としても領収書を発行しない客は大歓迎である。社用族が増える中で誰もが領収書を要求する時代にあっては、沼沢の様な存在は貴重だった。他にも一部の流行作家や花形芸能人ぐらいが自前で飲み食いする事もあったが、それ自体も稀ではあった。
そう云う店自体の営業方針に流されて、里美も沼沢への対応にはずっと神経を使い出していた。彼が店にやって来るのは木曜か金曜が多かった。雨の日は来たり来なかったりと、まちまちである。時間は9時前後で軽く飲んでいる時もあれば、そうでない時もある。何にしても沼沢が来ると思える日は決して休みを取らない様に努め、店内のドアから沼沢の顔が見えた時は常に満面の笑みを浮かべ彼のそばにと擦り寄って行った。
1984年も早や11月末となり、里美が「葵」に復帰して1年が過ぎていた。紅葉の時期も終え、師走は間近であった。
その日は夕方から氷雨が降り出し急に冬の寒さが襲って来た。金曜の夜なのに客足はまるで無く、ホステスとボーイたちは暇を持て余している。午後9時過ぎになっても客一人として来る気配はなく、ボーイ・マスターが、
「どうする、今夜は閉店にしてしまおうか?」
と、誰に言うでもなく独り言の様に呟やいた。幾人かのホステス達も何か帰り仕度をする雰囲気であった。意を決するかの如くボーイ・マスターが全員を見渡して、
「まあ、夜10時まで待って一人の客も来ない様だったら灯りを消すか!」
と、一様は皆んなの同意を得る様な問いかけをした。何処からも反対の声は出なかった。多くのホステス達が歩合制なので溜め息まじりの声だけが漏れた。
10時少し前に店のドアから数人の客が、軍艦マーチを歌いながら突然に入って来た。周囲の空気をまるで無視するかの様な進入の仕方だ。店のスタッフは何事が起きたかの様な顔で、やって来た客の何人かを凝視した。「葵」の格式を考えると、軍艦マーチを歌いながら入って来る店ではないのだ。
しかし、客の先頭には沼沢が立っていた。その沼沢が、
「俺の馴染みの店だ、今夜は陽気にやってくれ!」
と、同年輩の男性5人を伴って現れたのだ。男性6人はそれなりに酔っていた。
しかし沼沢以外の客は、店の中の高級感に溢れた調度品に少し気おくれを感じていた。
「おい、沼沢…良いのか、こんな高級な店に入って来て一体幾らかかるのだ!」
その気弱そうな男に沼沢は、
「そんな事は気にするな、ここの店は俺の顔パスだけで通る店だ。ともかく久しぶりのクラス会だ、気ままに遊んで行こうぜ」
と、豪快に笑った。そして彼は目で里美を呼んで、その耳元に囁いた。
「今夜は高校のクラス会だったのだ。その二次会でここに来たって云う訳だ。勘定は俺が全部出すから自由に遊ばせてやってくれ。日頃、こう云う店には縁のない連中だから少し上品さに欠けるかもしれないが、今日の所は俺に免じて許して欲しい」と、
沼沢にしてはかなり丁寧な申し出であった。
次回に続く
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