中沢家の人々(117)

「もしかしたら自分は、この沼沢と云う男を誤解していたのだろうか?…根はもっと心の優しい人なのかもしれない。ただ単純明解に見える人間なので彼の助平心のみに捉われていたのだろうか!」
そんな風にまで里美は考える様になっていた。確かに政治向きの話や文学の話をする訳ではないが、そんな学生ぽっい話題ばかりが男の価値でもあるまい。自分自身が「教養」と云う幻惑にただ囚われかたをしていたのかもしれないと、彼女は少しばかり反省をしていた。それは紛れもなく里美自身の学歴コンプレックスに根ざしていたのだが、彼女がその事に気付いていたかどうかは疑わしい。
季節は師走に入り、街ではすでにジングルベルが鳴り響いていた。先日の事を沼沢に謝罪され「葵」のスタッフ全員が恐縮した。その日を境に店での沼沢は、これまで以上に株を上げた。もちろん里美も間違いなく印象を良くしていた。彼女は沼沢の膝に手を乗せながら、
「沼ちゃんて、思った以上にデリケートなのね。私の気持ちも少し傾きそうよ」
と、幾らか甘えた声で里美は囁いた。沼沢は嬉しそうな顔になって、
「どんな風に傾いたのだ、俺と良い仲になっても構わないって云う意味か?」
と言って、里美の手を握って来た。
彼女はそのまま手を握らせておいて
「どれだけ良い仲になれるかは、沼ちゃんの口説き方しだいでしょう」
と、悪戯(いたずら)ぽっい目で沼沢を見つめた。
「そうか、俺はこれでも一生懸命に里美を口説いているつもりだがな!…他にどんな手があるんだ?」
「馬鹿ね、そんな事を女の私から言わせてどうするの!いまの発言は減点1じゃあない」
「それは厳しいな…これまでにもプレゼントだって色々と考えたしな…
やっぱり俺には女心が分からないのかな!」
里美は沼沢を宥める様に、
「そんな事はないわよ、後一歩って云う所かな」
と、まるでラブ・ゲームを楽しむかの様に言った。
「後一歩か、それじゃあ俺の取って置きの秘密を出すか!」
里美は誘われる様に、
「その、秘密ってな~に?」
と聞いて来た。沼沢は少し弄(いじ)らすかの様な調子で、
「さあ、どうするかな。ただ教えても面白くはないし…何か里美からの褒美が欲しいな!」
里美は少し考えて、
「分かった、素晴らしい秘密だったら、頬っぺにチュをして上げる」
「子供じゃあないんだ、頬っぺにチュぐらいじゃあ教えられないな」
と、沼沢も巧みにやり返して来た。
「うん、今日の沼沢くんは手強いな!…じゃあどんな条件なら納得するの?」
里美は戯(おど)けてわざと「くん」づけをして尋ねた。
「そうだな、今日の所は唇へのキスぐらいで妥協するか」
と言って、沼沢はニヤリと笑った。
「キスか、ちょっと悩むわね」
そう言って、里美はしばらく考えていたが、そこまで言う沼沢の秘密に限りない興味を覚えた。
「分かったわ、キスの条件を飲むわ。でも私に取って興味のない秘密なら嫌よ」
と、彼女なりの予防線は張った。
次回に続く

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