中沢家の人々(128)

そして翌10月21日(火曜日)、沼沢の淡い祈りが通じたかの様に東京市場は急激な反騰に向かった。里美と沼沢が抱き合う様に喜んだのは言うまでもない。
昨日3,836円安の21,910円で終えた日経平均が今日は2,037円高の23,947円まで戻したのである。やはり日本経済は強いと、新聞やテレビは盛んに燥(はしゃ)ぎ立てた。沼沢と里美は午前中一杯は株価の動きを静観していたが、午後からは積極的な信用買いに出た。沼沢は里美を励ましながら、
「里美、ここは絶好の買いチャンスだ。
正に千載一遇の機会と言っても良いだろう!ともかく買えるだけ買って行くべきだ」と、
確信する様に言った。里美もそんな沼沢の言葉を心から信じて、
「そうよね、私もそう思うわ。私も頑張るだけ買ってみる!」
と、彼女も沼沢に寄り添う様に買いに走った。
しかし、他の世界中の株価はそんな単純に回復はしなかった。それに釣られ日経平均も乱高下を繰り返し始めた。
11月2日には23,358円まで戻したが、11月11日には20,513円の大底まで下落してしまった。強気の信用買いに走っていた沼沢と里美の二人は、この時点で息の音を完全に止められた。追証の嵐の中で全ての財産を失ってしまったのである。仕手筋の情報も乱れに乱れ、そのグループ会員の多くも破産に追い込まれていた。
11月11日以来、沼沢は完全に消息を絶ってしまう。里美は自己所有のマンションさえ売却しなければならなかった。今更、「葵」にも戻れず、身を隠す様にして三流の安キャバレーで働き出していた。
この株取引にのめり込んでからは、殆んど無断に近い形で「葵」を辞めてしまった里美には誰も手は貸してくれず、安キャバレーだけが彼女の最後の逃げ場となってしまった。沼沢は生きているのか、それさえも分からなかった。その数ヶ月後に沼沢の妻らしき人から警察に捜索願いは出されたが、一向にその存在は確認出来なかった。
その一方、日経平均は1987年11月11日に20,513円の大底を付けた後は2年後の1989年12月29日には38,957円の大天井まで上りつめて行った。
ここで話を清吉と紀子そして翔太へと戻したい。この1989年9月に翔太は11才になり、すくすくと成長していた。小学5年生で中学受験を一年5ヶ月後に控え、この4月からは受験専門の学習塾にも通い出し、上位の成績を確保している。清吉は50才、紀子は46才になっていた。1983年1月末から始まった、この新しい家族の形態もすでに6年以上の月日が流れ本物の家族としての匂いも早や定着していた。「ことぶき」グループは12店舗まで拡大していたが、1986年からは事業拡大が足踏み状態になっていた。日本経済の猛烈な活況の下で、土地の高騰が起き始め、新しい土地の入手が困難となって来たのである。わずか1年で土地の値段が倍以上になった地域さえ出始めては、事業計画そのものが立ち行かなくなっていた。さらに人件費の上昇にもピッチが上がって来た。それ以上に下働の仕事をする職員そのものが少なくなり出して来た。ゴミ出し、店内の掃除は言うに及ばず板前の修業そのものにも年季の入る仕事を避ける若者が多くなっていた。日本全体の経済活動が豊かになるにつれ、清貧に甘んじて内にプライドを秘めながら一つの仕事に精通して行く日本人古来の心の在り方が少しづつ軽佻浮薄になって来た。それやこれやで本格的な料理店の事業拡大をし続けて行くのが困難になっていた。
次回に続く
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