霜月の夕暮れ(1)

台所の方から突然に大きな声がした。
「キャ!誰か、誰か、…!!」
夕方の6時過ぎに家の玄関を開けた瞬間に聞こえて来た音は、紛れもない母親の絹を裂くような悲鳴であった。職場から戻ったばかりの伸枝は驚き慌てて、台所に駆け出した。台所のガス台からは炎が天井を焦がすかの勢いで燃え上がっていた。本能的に伸枝は玄関脇に置いてある据え置きの消火器を持ち出し、急ぎ消火活動に当たった。職場で何度か受けた消火訓練が思わぬ所で役に立つた。天井の一部に焼け焦げた跡は残ったが大火災にはならず何とか消し止める事が出来た。伸枝はホッとすると共に怒りが込み上げ、
「お母さん、一体どうしたのよ…!?」と、強く母親を詰った。母は台所から少し離れた和室にへなへなと座り込んで、
「そんな事を言ったって、お前…
私にだって何が何だかさっぱり分からない!」
と、茫然自失の態だ。ガス台の上には、天ぷらを揚げた跡があった。恐らくは、そこから油でも漏れて引火したのであろう。しかし、たまたま実家に自分が帰って来たから良いようなものだが、普段通りに、夫と一緒に住むマンションに戻っていたら間違いなく家は丸焼けになっていただろう。考えるだけで恐ろしい気がする。夫は2日前から名古屋に出張となっているので、ちょっとした気分で田端の実家に立ち寄ってみたのだ。伸枝の会社は巣鴨にあって会社から田端の実家までは30分もかからない。それで、父親が一昨年に肺癌で亡くなってからは、妹と交代で母が住む実家に週一回は顔を出す様にしていた。そんな矢先の出来事である。
母はまだ73才だ、そんなにボケているとは思えないし母も長年住み馴れた田端の実家から離れたいとは考えてもいないみたいだ。妹は埼玉の川口に住んでいるので伸枝の方が田端に立ち寄るのは楽だ。彼女は少し気持ちを取り鎮め、
「お母さん、今日の夕食はどうするの?
私も付き合うから何か食べに行こうか」
と、問いかけてみた。
「お前、外に食べに行くって言ったって、余計なお金がかかるだけだろう」
そんな母の返事だが、台所はとても使えた状態ではない。天ぷらを揚げた後には消火液が散乱して、料理なんか作れたものではない。先ずは散乱した台所の後片付けをしなければ…そう考えただけで伸枝は気が滅入りそうだった。その後片付けにしてもかなりの時間がかかりそうだ。ともかく夕食が先だろう。重い腰の母を何とか説得して外に連れ出した。
11月の雨は重く寒い。伸枝の心はそれよりも更に重く暗かった。台所の後片付けもそうだが、これから先も母一人で大丈夫なのかと考え出すと、気持ちは萎えて来るばかりだ。幸いにして伸枝は結婚24年たっても子供には恵まれなかったので、夫が許せば母親との同居は可能である。そんな事を漠然と考えながら母娘は中華の店に入り、伸枝は野菜炒めとご飯を食べた。母親も同じ物を注文した。伸枝に比べ母親の方が食欲は旺盛で全部を食べ尽くした。彼女は半分食べただけで胸が一杯になって来た。母親は先程の出来事を忘れているのか、
「お父さんも、この野菜炒めが大好きだったよ」
と、快活に答えていた。一体、これから家に帰って、あの台所の後始末を誰がするのかは全く考えてはいないみたいだ。
次回に続く

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