霜月の夕暮れ(2)

母親と共に夕食を終えて帰宅したのは、午後8時半だった。家の電気を点けると、台所の惨状がいやでも目に入って来る。そんな台所を見て
「一体、このメチャクチャな汚れ方はどうしたんだい?…泥棒でも入ったのかね!」
と、母親は驚きの声を上げた。伸枝は怒りよりも言いしれぬ恐怖感を抱いた。どう考えても母の精神は普通でない。これがボケの始まりなのだろうか?
それでも伸枝は出来る限り自分の感情を抑えて母親に尋ねた。
「お母さん、このメチャクチャな台所は誰がしたの?」
「誰がって、誰がしたって言うのさ!」
「お母さんは、今夜の夕食に天ぷらを揚げようとしなかったの?」
「天ぷらを…あゝ、お父さんが食べたがっていたからね」
「お父さんって言ったって!…今はいないでしょう?」
「お前は何を言っているの、今日はお父さんの祥月命日じゃあないか。お父さんの好きな天ぷらを陰膳として据えようとしたんだよ」
伸枝はハッとして逆に胸を突かれた思いがした。確かに10月24日は父の命日だ。あれから2年以上が経っている。それを忘れていた訳ではないが、今日は11月24日だ。同じ24日ではあるが母はこれまでも同じように毎月24日の日には陰膳を据えていたのであろうか…その24日に母が父の好きだった天ぷらを揚げていたとしても何ら不思議ではない。そんな母の思いを一方的にボケ症状と決めつけた自分は、ただの早とちりをしていたのであろうか? 何か謎めいた気持ちに駆られながらも、母にまた尋ねずにはいられなかった。
「お母さん、それで天ぷらを揚げていて後はどうしたの…揚げた天ぷらは何処にあるの?」
伸枝は自分自身でも少し意地悪な質問かとは考えたが、口から先に言葉が出てしまった。母の吉子は不思議な物を見る様な顔で、娘の伸枝を見つめた。
「天ぷら…そう、天ぷらはどうしたんだろう。誰かが来て…うん、よく分からないね」
母の記憶は明らかに飛んでいる。火災になりかけた驚きで一時的に記憶を失ってしまったのであろうか?…母もそれなりのショックを覚えたのは確かであろう。
それ以上母を責める気力も失せ、伸枝は散らかった台所の後片付けを始めた。ガス台は新しい物に買い直す必要がありそうだ。散布した消火液の掃除は思った以上に手間取った。
その間も母は自分とはまるで関係ないかの様な顔でテレビの歌謡番組を見ていた。ともかく一人で何とか台所の後片付けをし終えた時は、夜の12時に近かった。明日は日曜だし、夫は出張中でもあるから今夜は田端の実家に泊まって行く事にした。
母親は一人で早くも寝ていた。そんな母を見て少しばかりイラ立ったが、まさか叩き起こす訳にも行かず、黙って風呂の準備をした。この汚れた体では寝る気にもなれない。一人で湯船に浸かっていると一日の疲労感が鉛の様に重かった。ともかく、あれこれ取り越し苦労をしても始まらない。そうは思っても一抹の不安は胸の奥から消えなかった。母は、このまま一人で暮らして行けるのかと考えずにはいられなかった。
以前は父親が寝ていた母と隣り合わせの和室に布団を敷いて伸枝が部屋の電気を消したのは午前1時半を過ぎていた。父親の懐かしい匂いが蘇って来る様だったが、身体は何時しか深い眠りに入っていた。
次回に続く
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