霜月の夕暮れ(3)

日曜の朝、日差しは眩しかった。11月の空は澄み切った青空である。カーテンも取り払われた父の和室で一人寝ていた伸枝には、朝の眩しさは一入(ひとしお)であった。午前7時を過ぎた頃になって彼女は、そんな陽の光の許で目を覚ました。隣室の母は未だ布団の中にいた。
伸枝は一人洗面を済ませ、朝食の準備にかかる。台所は昨夜の天ぷら火災の臭いが十分には抜け切れていない。少し寒かったが台所近くの窓を思い切り開け広げた。何を作ると云う意図もなく、冷蔵庫を開けて食べられる物を探してみる。野菜室にはキャベツとキュウリが入っていたが、少し変色した感じだ。玉子も4個ほど目についたが、どうも賞味期限が過ぎていそうだ。冷凍庫には焼きおにぎりとタコ焼きが置き忘れられた様にあって、とても口には出来そうにない。考えてみると、この一年近くは実家の台所に足を踏み入れた事などなかったのかもしれない。大体が泊まって行くと云う習慣さえ失われていた。父が亡くなって一年ぐらいは妹と伸枝も、母の寂しさを慰める意味があって月に何度かは交代で泊まったりしていたものだが、昨年ぐらいからは元気で伸び伸びと生活を一人楽しんでいる様な母の姿に、逆に姉妹が時々義務的に泊まって行く事そのものが、何か有り難迷惑とも思えたりして少し疎遠な関係になっていた様だ。もちろん、電話をかけたり仕事帰りに母の好きな大福を買っては、一、二時間の雑談を共にする事はしばしばであったが、それ以上の生活を一緒にする考えは何処か稀薄になっていたかもしれない。母もそんな伸枝姉妹の対応に不満を漏らした事など一度もないし、伸枝がこの4月に出版社の課長に昇進した時などは心から喜んでくれて、
「これからの時代は女であっても社会の第一線でバリバリ働いて行くもんだ」と、伸枝を叱咤激励したのだが…
それなのに母のこの変わり様はどう考えたら良いのだろうか?…伸枝の頭の中には薄暗い雲がかかって来る様だった。
いずれにしても朝食の準備はしなければならない。近くのコンビニに出向き、おにぎりとカップ入りの味噌汁を買って来た。午前8時前に母はやっと起き出して来た。伸枝の顔を見て、
「あれ、お前は何時の間に来たんだい」
と、何か不思議な物でも見る顔つきをした。伸枝は何の言い訳もせずに、
「お母さん、お腹が空いたでしょう。今そこのコンビニでおにぎりを買って来たから一緒に食べる?」
と、母の質問には何の返事もしなかった。母親と押し問答する事自体が恐怖だった。自分たちの生活に不安の影が確実に忍び寄って来る様で…
「お母さん、今はね旦那が名古屋に出張に出かけていて当分は私が一人で生活をしているのよ。しばらくはお母さんと一緒に田端の家に泊まりこんでも良いかしら?…ここからだと私の会社も近いし」
と、伸枝はさり気なく母に尋ねた。
母親は肯定も否定もせずに、
「お前の好きな様にしたら良いよ」
とのみ、答えた。
「じゃあ私、ご飯を食べたら少しだけ目白に帰って三、四日分の着替えを持って来ますから…昼頃には戻って来るわね。ところでお母さん、お昼は何を食べたい?」と聞いてみた。母は一人でおにぎりを2個以上は平らげ、
「そうだね…今はお腹が一杯だから何を食べたいか思いつかないね。お前に任せるよ」と、積極的に催促はしなかった。伸枝は午前9時半に自宅マンションに帰り着くや、名古屋の夫と川口の妹の所に電話を入れた。
次回に続く

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