霜月の夕暮れ(5)

あの優しかった母と、たかだかおにぎりの事で何を争っているのだ!…一体この先、母とはどの様に接して行けば良いのだろうか。やっぱり母は尋常とは思えない。少し前までは話せば道理は分かってくれたのに…。賞味期限の切れたおにぎりで、こんなにも怒り出すなんて、頭の中が変になっているとしか言い様がない。考え出すと悩みは増すばかりだ。
それでも、これ以上に実の母親と険悪な雰囲気を続けて行くには余りに哀し過ぎた。伸枝は自分から折れるしかないと思った。
「お母さん、ご免なさい。どこも痛い所はない。変に打ち所でも悪いと後が大変だから…無理におにぎりを取り上げたりして、すいませんでした。ただね、久しぶりにお母さんと二人でお寿司を食べに行きたくなったのよ…私の我が儘だったのかしら!」
吉子も娘の言い訳で、少しばかり心が穏やかになって来たのか、
「最初から、そう言えば良いのに…急に私が食べているおにぎりを取りあげたりするからだよ。誰だってそんな事をされりゃ腹が立つだろうよ。お寿司が食べたいなら、それはそれで良いよ」
母も同じ様にお寿司を食べたくなったのか、今度は何の抵抗もなく伸枝と一緒に家の外に出た。母親の歩く姿は何時もと変わりはなく伸枝との衝突で身体の何処かを痛めた様子はなかった。二人は何事もなかったかの様に駅近くの寿司屋に入った。カウンター席に並んで座り伸枝が優しく尋ねた。
「お母さん、何か汁物でも頂く?」
「別に熱いお茶だけで良いよ。最近のお前は何か贅沢だね、汁物だってお金が余分にかかるだろうに!」
と言われては、伸枝に返す言葉が見つからない。それでも母との話の続きを探す為に、
「贅沢って程でもないけれど、お母さんも知っている通り私は今年の4月から課長に昇進して、お給料も上がったし。うちは旦那と二人だけで子供がいないから智美の所よりは楽かもしれないわ…」
母の吉子は少し疑わし気に、
「課長って、何の事さ…私はそんな話は知らないよ…大体、女のお前が何故課長になんかなれるの?」
「いやだ、お母さん。この4月に課長になったって一番最初に報告したのはお母さんにでしょう?…あの時はあんなに喜んでくれたのに。女でも今の時代は一生懸命に仕事をしていれば課長にでも成れる時代だと言ったのは、お母さんでしょう!」
伸枝はさすがに少し気色ばんだ。
「そうだったかね、お父さんが亡くなって相続やら家の権利関係とかで未だ落ち着いていなかったから…それにお父さん名義の定期預金を解約するのも容易ではなかったし、ずいぶんと気忙しい毎日だったけど…そうだったね、伸枝は課長さんになっていたんだっけ。近頃は物忘れが多くて、自分でも困ったもんだと思ってはいるんだが、そりゃ悪い事を言ったね」
そう低姿勢に出られると、伸枝はそれ以上には母を責められなかった。昔の優しかった母がそのまま戻って来た感じすらした。二人はすっかり打ち解けて、亡くなった父の思い出や妹の静子との幼い日々の懐かしい話に心を慰め、楽しくお寿司を食べて午後2時半頃になってから田端の実家に帰った。途中の甘味処で豆かんを二つ買った。自宅に戻ってガス台を隅から隅まで丹念に洗浄してみたら何とか、ガス台も使える様になった。ともかくガス台が使えなくては煮物も料理も出来ない。日曜日では修理してくれる所はないし毎食を外に出て食べると云うのも億劫だ。
次回に続く



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