霜月の夕暮れ(8)

「それでは今から長谷川スケールと云う簡単な知能テストを実施します。ご家族の方は同席いたしますか?」
「同席した方が良いのでしょうか!」
「別に同席の有無は問いませんが、患者さんの精神状態によっては違って来ますから…」
と、看護師が説明した。伸枝は少し思い悩んだが…
「分かりました、母の精神状態は幾らか不安定だと思いますので私も同席させて下さい」
と伸枝は答え、母と一緒に面談室に入って行った。母の緊張感が少し伝わって来る様だ。そんな母を伸枝は優しく諭した。
「お母さん、何も心配する事なんかないのよ。簡単な質問を幾つか受けるだけだから」
と言った伸枝自身が、すでに不安感で胸の中が揺れていた。ただの物忘れなのか、本格的な認知症に成っているのかは気になって仕方のない所である。看護師はニコやかだった。質問内容もそれ程に難しい物ではない。内容その物は、
「お誕生日を教えて下さい。今日は何年何月何日ですか?…ここは何処ですか、病院ですか、あるいは自宅なのかしら、
100-7=?、93-7=?、86-7=?は幾つになるでしょうか?…お野菜の名前を出来る限り言って下さい、果物の名前も出来る限り言って下さい」
と言った質問が、幾つか出された。30点満点で20点未満を認知症と判断をする。母の吉子は思った以上に素直な対応で答えていた。何か視力テストの様な感覚であったのかもしれない。テスト結果は23点だった。伸枝が心配した程に成績その物は悪くはなかった。そこから1時間以上は待たされ医師の診察となった。医師は手指先端の手の振るえや上肢肘関節の筋強固の具合を丁寧に診て、糖尿病や高脂血症さらに甲状腺機能の一般血液検査を指示し、MRIの検査を2週間後に予定した。その2週間後に会社を休んで病院に又来るとなると自分のスケジュールが余りに厳しい。それに少しでも母の結果を知りたい。それで伸枝は無理を承知で医師に頼み込んだ。
「非常識だとは思いますが、本日MRIの検査を受け受ける事には無理でしょうか?」
と、伸枝は強引に食い下がった。医師は少し怪訝な表情を示した。しかし伸枝はそばに母以外の人が誰もいない事を確かめて小さなノシ袋に3万円を入れ、前にいる医師の白衣のポケットに有無も言わさず差し入れた。今の出版社に入職した駆け出しの時代、著名作家に原稿依頼する時に先輩スタッフが度々用いていた手法である。この手法が何時も通用する訳ではない。時には逆効果となって相手を怒らせてしまう危険さえある。また金額の設定も難しい。多ければ良いと云うものでもない。要は営業マンの勘みたいな一種の賭けでもある。ともかく母の適切な診断結果を一日でも早く知りたいと切に願った伸枝の止むに止まれぬ「清水の舞台から飛び降りる」ような行為であった。医師は一瞬、嫌な顔をして…
「こんな事をされては…」
と言いつつも、
「いゃあ、あなたの強引さには敵わないな!」
と言って、パソコン画面で本日のMRIの予約状況を確認し始めた。午後1時にキャンセルが一件見つかり、医師は伸枝の方に向き直った。
「今日の午後1時からなら何とかMRIの予約が取れそうですが、どうなさいますか?…こんなチャンスは稀ですがね!」
と、医師は得意そうに告げた。
次回に続く

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