霜月の夕暮れ(9)

伸枝は嬉々として医師に礼を述べ、
「有難うございます、それで結構です。どうか宜しくお願い致します」
と、素直に頭を下げた。今回に限り医師への謝礼は効果を上げた様である。
「では、その様な事で…今日の結果は来週の月曜日にはご説明出来ます」と、締め括る様に医師は話した。これ以上は伸枝と関わりたくないかの様だ。来週の月曜日にまた会社を休む事が出来るのか自信はなかったが、ともかく了解した。
午前11時に採血の順番が来て、昼少し前には病院内の食堂で母と二人でカレーライスを食べる。
午後1時からはMRIの検査だが、伸枝も半年前に腹部腫瘍の疑いでMRIの検査を受けた事がある。磁気による画像検査なので30分以上はかかってしまう。それに検査中の音もかなり気になって仕方がない。母がそんな検査に耐えられるとは、とても思えない。伸枝は気になって12時過ぎに放射線科の受付窓口で、その事を相談してみた。受付の女性は、
「分かりました、すぐ担当の医師に聞いてみます」
と答え、電話で検査指示を出した医師に連絡を付けた。
暫くすると、看護師がフィルムにシールドされた白い錠剤を、一つ持って来る。看護師が見せたフィルムの裏側には、『ラボナ50mg』と印字されていた。
想像以上に早い手際だった。
検査の時には、母はうつらうつらしていた。薬が早くも効いて来たみたいだ。おかげで吉子の検査は無事に済んだ。ただ検査の後、母の眠気が十分には覚めず、1時間近くは車イスに乗せ様子を見ていた。田端の実家までは近かったが、母を歩かせるのが怖かったのでタクシーで帰った。家に帰り着いたのは3時を過ぎていた。母をタクシーから下ろして家に上がるが、玄関の段差にさえ躓きそうだ。部屋に布団を敷いて、母を直ぐに寝かせる。母はそのまま安らかに寝ていた。伸枝も何とか人心地が付いて、一人でお茶を飲んだ。しばらくして、会社に電話を入れる。
「もしもし、山口伸枝です。お疲れ様です。河上次長に代わってもらえるかしら…えゝ、外出中なの?困ったわね。実は、母が病気になってしまったので、10日程の有給休暇が欲しいのよ。誰に相談したら良いのかしら…ねぇ、あなたから河上次長に伝えて下さらない、お願い!後で私が文章で正式にご連絡しますから、すいません。お忙しい所を無理ばかり言って…では、宜しくね」と、一方的に電話を切った。
電話の相手は部下の杉山だった。ともかく、ゴリ押しであっても有給休暇を取らせてもらうしかない。少なくとも来週の月曜に診断を聞くまでは、母を一人で置いてはおけない。妹の静子は45才で伸枝よりは2つ下だが、子供が3人もいて身動きが取れそうにはない。一番上が二十歳で、二番目と三番目はそれぞれ大学受験と高校受験が間近に控えている。とてもじゃあないが母の介護を頼める状況ではない。伸枝だって会社の仕事は忙しいのだが、子供が一人もいないと云う事が決定的だ。妹には、
「お姉ちゃんは良いよ。家事と自分の仕事にだけ専念していれば、それで済むんだから…それに義兄さん(お兄さん)は年がら年中、出張で家を空けているんだから何の手もかからないじゃあない。私なんか3人の子育てとパートで毎日がフーよ」
なんて日頃から愚痴られている。伸枝にだって言いたい事は山ほどあるのだけれど。不況下の出版業で課長と云う仕事がどれほど大変な事か!
次回に続く
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