霜月の夕暮れ(10)

幾つもの雑誌編集を企画しては挫折し、現在社会の字離れしていく風潮の中で出版業は悪戦苦闘の日々なのだ。まあ、そんな話を妹に聞かせたからといって分かってはもらえないだろうが。
日本の失われた10年とか20年とか言われている不景気の長く続く時代では、誰もが自分の事で精一杯なのかもしれない。夫も忙しそうだし、ともかく頑張れるだけ何とか自分一人で母を支えるしかない。
母の寝ている時間を狙って、食事の買い物に一人でスーパーへと出向く。行きつけのスーパーと違って食材の場所が直ぐには分からず多少手間取ってしまう。両手一杯に抱えても3日分の食材を買い集めるのがやっとだった。主婦業も決して楽ではないと改めて痛感する。家に戻ったら5時半だった。母は目を覚まし布団の中で大きな欠伸をしている所だった。伸枝は冷蔵庫に買って来た食材を選別しながら入れた。
「お母さん、身体の具合はどう?」
と尋ねると、母は寝飽きた顔で…
「今は何時だい?」
と聞いて来た。
「5時半を少し過ぎた所よ」
台所の仕事に専念しながら、伸枝は答えた。
「おや、もうそんな時間かい!…こんな事はしていられないね、食事の買い物に行かなきゃ!」
と、吉子は驚いた様に布団の中から起き出して来た。
「お母さん、大丈夫よ。今私が食事の買い物を済ませて来た所だから」
と、伸枝はにこやかに答えた。
「まあ、そうかい。そりゃ助かるね、有難うよ…」
「それより、体調はどうなの?
今日は病院で色んな検査をしたから疲れたでしょう。炬燵に入ってテレビでも見ていたら、今炬燵の電源を付けるわね」
そう言って、伸枝は炬燵の電源を入れた。吉子は穏やかな顔つきで…
「身体は何ともないよ。そうか、今日は病院に行って来たんだ。道理で何かいつもと違っているって感じがしたんだね。それで伸枝が何もかもやっているんだ…それにしても伸枝に台所仕事までやってもらって、あんたの家の方は良いのかい?」
と、話し言葉も全く以前の母に戻っている。伸枝はまた思い悩んでしまった。自分だけが母を認知症と誤解していたのだろうかと。妹や夫が言う様にしばらくは冷静に見守るべきなのかもしれないと考え直したりもしていた。夕食は湯豆腐にさつま揚げとサラダを付け合わせた。
母は美味しそうに食べていた。伸枝も穏やか気持ちで食事を味わえた。食後は二人でしばらくテレビを見ていた。その後で吉子が立ち上がり、
「後片付けは私がするよ、何もかもあんたにやってもらっちゃ悪いし、あんまり甘えていると年寄りはボケるのが早くなるって言うから」
と笑いながら、夕食の後片付けを始めた。伸枝もそんな母を見直すかの様に、
「それじゃあ後は、お母さんにお願いするわね」
と言って、そのままテレビを見ていた。
何かこの一日、二日の気苦労が嘘の様に感じられた。このままだと会社に戻るのも割と早いかもしれないと考えたりもした。課長である自分が余り長期に休むと、かなりのスタッフに多くの負担をかけてしまうと頭の一方では思い悩んでもいた。少し肩の荷が軽くなる気分だった。基本的に伸枝は今の出版業の仕事が好きであった。雑誌の新しい企画が当たって販売部数が大幅に伸びた時の喜びは格別である。今企画している女性中心の新しい「グルメ探し」の編集も彼女が立案したもので、これも伸枝が長期休暇を取ってしまうと空中分解する危険性さえ出ている。
次回に続く
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