霜月の夕暮れ(11)

そうなると、会社に多額の損害を与えてしまう恐れも出て来る。母の抱える問題が長引くと、伸枝自身が社会的な苦境に立たされかねない。彼女なりに口には出せない悩みも大きかった。だから母が認知症かもしれないなど、ただの杞憂である事を心の底から願っていた。
にもかかわらず、母が台所に立って20分もしない間に、何か割れる様な物音が聞こえて来た。伸枝の心が微かに揺れた。
「お母さん、どうしたの?」
と声をかけながら、伸枝は母のそばに駆け寄った。茶碗一個と皿が一枚、洗い場から床に砕け落ちていた。母は少し恥ずかし気に、
「どうしたんだろうね、私じゃあないよ。勝手に落ちてしまったんだ!」
と、言い訳にもならない顔つきで伸枝を見つめた。伸枝の中の淡い願いが崩れる去る様に萎んでいった。涙の一滴も出なかった。伸枝はただ砕け散った食器の残骸を黙って片付けるしかなかった。それでも精一杯に自分を押し殺して、
「お母さん、怪我はなかったの…大丈夫?」
と母に、労わりの声だけはかけた。それは伸枝自身への労わりでもあった。これからの母との長い日々を考えると、何かに向かって叫びたくなる様な衝動に駆られたが、自分の定められた運命からは逃れられないと思うしかなかった。
20年前のあの日の時の様に…
それは結婚して2度目の冬であった。25才で今の夫と結ばれ、27の年に男児を出産した。生後3ヶ月目までは、すくすくと育ち夫婦共に円満な日々が続いていた。しかし生後5ヶ月目でオムツの交換をしていた時に腹部の妙な大きさが気になり、近くの小児科医に相談した。腹部の触診をし、さらにエコーを撮って医師は首を傾げた。
「申し訳ないが、自分の様な開業医で診れる病気ではない。国立小児病院を紹介するから1日も早く行って欲しい」
と言われた。驚いて伸枝は医師に聞き返した。
「そんなに大変な病気なのですか?」
と、彼女の顔は真っ白になっていた。医師は言葉を選ぶ様にして…
「何とも申し上げにくいのですが、お腹を診させて頂いた感じでは腫瘍性病変みたいな気がしてならないのです。ともかく、ここでは何の精密検査も出来ませんから国立小児病院に早く行ってみるべきです」
そう言われ伸枝は膝の振るえを感じながらも、さらに医師に尋ねた。
「腫瘍性病変って、癌の事ですか?」
聴くだけでも全身が慄く思いだが…質問を受けた医師は極めて冷静を装い、
「はい、小児癌の疑いが強いと思います」と、
答えた。伸枝は怖さの底を覗き込むかのように
「子どもにも癌なんて出来るのですか?」
と尋ねずには、いられなかった。
「はい、小児特有の癌も存在するのです。ですが、詳しい事は国立小児病院でお尋ね下さい」
医師は下向き加減に、そう応えた。
それからの伸枝は赤ん坊をベビーカーに寝かせ、ほとんど放心状態で何とか自宅に帰り着いた。先ずはオムツ交換をする。中等度の軟便は見られたが、別に何時もと変わった様子はない。離乳食の食べ方も同じだ。あの医師はただ純一のお腹を診察しただけではないか、それだけで小児癌なんて言えるのか?…まあ、それでも紹介された国立小児病院には行ってみるべきだろう。ともかく、夫の会社に直ぐ電話を入れた。
次回に続く
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