霜月の夕暮れ(12)

「もし、もし、山口の家内ですが…お忙しい所を誠に申し訳ございません。ちょっと急用が出来ましたので山口を電話口まで呼んで頂きたいのですが…すいません!」
夫が会社から帰って話しても良かったのではあるが、伸枝の心は乱れに乱れていた。直ぐ電話口に夫の俊治が出て来た。
「何だ、職場になんか電話をして…急用か?」
そんな夫の冷たい言い草に伸枝の哀しみは増した。だからと言って、ここで引き下がる訳には行かない。
「あなた、純一が大変な病気みたいなの。それでね、近くの小児科の先生に診てもらったんですが、小児癌の疑いがあるって言われたの!」
「小児癌?!…子供にも癌が出来るのか?」
電話の向こうで夫も、伸枝と同じ質問を投げかけて来た。その驚く表情が容易に想像できた。
「それでね、小児科の先生に国立小児病院への紹介状を書いてもらったの。明後日の木曜日、午前9時には世田谷の国立小児病院に行く事になったんだけれど、あなた何とか会社を休めない。私一人でベビーカーに純一を乗せて、ラッシュアワーの時間帯に電車で行くのは、とても無理だわ…」
夫の俊治はしばらく黙っていたが、
「分かった、何とかして会社には欠勤届けを出す。後は俺の車で病院まで行くようにするから心配するな」
と言ってくれたので、伸枝は何とか人心地がつけた。もし、夫が仕事優先で病院まで付き合ってくれないなどと言い出したら、彼女は逃げ場を失ってパニックを起こしていたかもしれない。夫との最初の子供が小児癌の疑いがあるなどと言われ、どんな母親が正常でいられると思うのだ。深い湖の底に誘いこまれそうな幻惑から…どうやって逃れられるのだろうか、夫の協力なしに。
さらに俊治は伸枝を慰めるかのように、
「今日はなるべく早く帰るようにするから、その時に詳しい事情を聞かせてくれ」とも言った。夫は大手の商社マンで帰りはいつも遅かった。しかし、今夜はその言葉通り午後7時には帰って来た。いつもより3時間ぐらいは早い。伸枝は未だ夕食の支度も出来ていなかった。純一の世話をしていたら病気の不安ばかりが募り何も手には付かなかったのである。夫の顔を見るなり伸枝はどっと涙が溢れた。
「あなた、あなた、純一が癌かもしれないと言われたの!…こんな小さな子どもが何故癌になんかなるの?」
俊治はそんな妻の肩を包み込む様にして、
「伸枝、少し落ち着いてくれ。まだ癌だと決まった訳ではないんだろう。その小児科の医者は一体、なんて言ったのだ。最初から癌だと言ったのか?」
「そうは言っていないけど、その疑いが強いから小児の専門病院に行って欲しいと言われたの…」
「ふ~ん、それが国立小児病院って訳か?」
「そうなの、それにそこの外科部長が大学の同級生だから紹介もしやすいと言って、わざわざご自身で病院に電話をかけて外来予約まで取ってくれたの。普通だと1ヶ月以上は初診予約だと待たされる、とも言われたわ!」
「そうだったのか、それにしても随分と親切な先生だな…」
「でしょう?…でもその親切さが逆に病気の重さを疑っている様にも感じられて怖いわ!」
「確かにな~!」
と言って、俊治も深々と溜め息をついた。
次回に続く
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