霜月の夕暮れ(14)

「腹腔内に癌細胞が幾つか増殖しています。現時点では大豆大の癌細胞が3つ程認められます。恐らくは後腹膜腫瘍ではないかと思います」
伸枝が何か言いかけたが、それより前に俊治が医師の前に一歩進み出た。
「何故、こんな赤ん坊に癌などが出来るのですか?」
少しばかり感情を露わにした問いかけであった。医師はあくまでも冷静さを保ちながら…
「はい、この様な乳児に発生する腫瘍の多くは胎芽期に根差していると言われています」
「胎芽期って、何ですか?」
「受精卵から3ヶ月、約12週で胎盤が形成されますが、その胎盤形成までを胎芽期と呼びます。通常の悪阻(つわり)が出現する前後までが胎芽期と呼ばれる時期でしょうか…」
「腫瘍の多くが胎芽期に根差していると云うのは、どんな意味ですか?」
「母体が薬物(例えばアレルギー薬、精神科領域の薬、睡眠剤)やアルコール中毒、ウイルス感染、喫煙の習慣などで傷ついていますと胎盤形成前の胎芽には防御になる胎盤がないものですから種々の奇形が発生しやすくなります。小児癌なども、その一つの例です。もちろんそれ以外の例もありますが…」
伸枝は医師の説明が納得出来ずに、
「先生、私は今ご指摘を受けた薬やアルコール、喫煙の経験など全く思い当たる節はないのですが!」
「そうですか、ご主人もタバコはお吸いにはならないのですか?」
「はい、主人もタバコは吸いません。アルコールは時々飲みますが、私はアルコールも飲みません」
「そうですか、奥様はずっと専業主婦だったのですか?」
「いいえ、今は産休中ですが雑誌記者の仕事をしています…それが何か!」
「失礼ですが、その職場の環境はどうですか。タバコを吸っている方はいませんか?」
そう言われて、伸枝はハッとなった。職場の環境は考えてみれば最悪そのものだ。多くの男性社員がタバコの煙を30畳程の編集室で所狭しと曇らせている。
短大を卒業した二十歳の年から純一の産休中まで6年ぐらいは、そんな職場で働いていたのだ。伸枝自身はタバコを吸ってこそいなかったが、そんな職場の環境には慣れていた。何と言う事だ?!…
それがこんな小さな我が子に小児癌などと云うとんでもない病気を誘い入れてしまったのか、今更悔やんでも悔やみ切れないが・・・!!
伸枝はすがりつく様に医師の顔を見つめ
「先生、それで何とか助かる方法はあるのでしょうか?」
「そうですね、先ずは開腹して癌病巣を摘出しリンパ郭清術を行ないます。後は術後転移を防ぐと云う意味で抗がん剤治療も必要になるでしょう」
「抗がん剤・・・!!」
伸枝は悲鳴にも似た声をあげた。続いて俊治が尋ねた。
「こんな小さな子どもに、抗がん剤治療なんて事が可能なんですか?」
「そこが最大のポイントとなるでしょう。つまり、抗がん剤治療にお子さんの体力が何処まで持ち堪えられるかにかかっている訳です」
「そんな??・・・
それで助かる可能性は、どのくらいあるのですか?」
俊治は天を仰ぐ様な思いで聞いた。
「極めて難しいでしょう…ね」
と、外科部長は沈痛な面持ちで答えた。
次回に続く
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