霜月の夕暮れ(18)

翌日7時半には夫が会社へと出かけて行く。何時もはここからが戦争だ。先ずは朝食の後片付けをして8時過ぎには純一のオムツ交換をして、乳房を口に咥えさせる。生後5ヶ月目頃からは母乳を先に与えるか、わざとお腹を空かして離乳食を先に与えるか判断の迷う所でもあるが…しかし、今朝はそんな迷いもない。乳房が自然に張って来る。でも飲んでくれる赤子はいない。その乳房の張りと痛みに我が子への愛おしさが甦えって来る。
「純一、純一は何処なの?」
分かっていても伸枝は叫ばずにはいられない。それでも乳房の張りに耐え切れずに台所で母乳を搾れるだけ搾り出した。甘酸っぱい母乳が台所の食器洗いに滴り落ちる。伸枝の涙の一雫(しずく)と共に…もう一度、この乳房を純一の口に充てがう日が来るのだろうか?…一層このまま断乳すべきであろうか?
男には決して分かり得ない母体の限りない哀しみと迷いである。満足そうに吸い続けていた純一の愛くるしい表情が伸枝の脳裏から、今もって離れない。そして伸枝は更に自問自答せざるを得ない。
「純ちゃん、必ずママの許に帰って来てね…」と。
それは叫びにも似た願望である。
午前中は家の後片付けや純一の下着を取り揃えたりして、遅い朝食を少しだけ口にして1時に自宅を出て病院に向かう。
如何に面会謝絶とは云え、例え窓越しであっても我が子の姿を見ずにはいられない。そんな思いで伸枝は5階の外科病棟にやって来た。ここは小児の重症例が多く、全体的に暗い雰囲気であった。壁にはミッキーマウスの絵が描かれてはあったが、訪れる面会者には虚ろな絵にしか映らない。純一は窓際に近いベットに寝ていたので直ぐに分かった。瞳は閉じられたまま点滴をつけている。伸枝の存在には全く気付かない。今すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られるが、それは許されない。たった一枚の窓が、ここまで母子の距離を遠いものにしてしまうのか?…何か呪われた空間に身を置いている様で、伸枝は言い知れぬ不安で一杯になったが…。
本当に辛い思いをしているのは純一なのだ。その母親たる自分が、こんなにも迷い苦しんでばかりいてどうする…と、伸枝は自分で自分を叱った。
そこに外科部長が丁度通りかかった。
「あっ、先生…今お話をさせて頂いても良いでしょうか」
ほとんど涙ぐむ様な声で伸枝は尋ねた。
医師は振り返り、
「おや、純一くんのお母さん!」
「はい、純一の母です。昨日は大変お世話になりました。その後、純一の容態は如何でしょうか?」
「そうですね、乳児期にしては大手術でしたから、当分は絶対安静期間ですよね。結局の所、彼の生命力次第とも言えるでしょうか。未だ数日間は彼の回復力を見て行く事と、他に癌転移の起こらない事を祈るだけです…」
「確かに先生の仰る通りですわ。それでも先生、わずか5カ月の乳児で、あんな大手術をしても助かるものでしょうか?」
「ご心配はよく分かります。私たち医師もタイトロープを渡るような日々で、お子さんの治療にあたっています。また別の場所に癌細胞の出現を見てしまうのか、肺炎などの合併症を引き起こしてしまうのか、数ヶ月は予断を許さない時期が続くと思います。まあ、昨日の手術経過は今の所は良好ですが…?」とのみ,
外科部長は告げてその場を足早に通り過ぎて行った。
次回に続く
関連記事

コメント