霜月の夕暮れ(21)

純一が亡くなって1ヶ月以上、伸枝は寝たり起きたりの放心状態が続いていた。
前の職場には、どうしても戻りたくなかった。もしかしたら純一の小児癌の元凶になったかもしれない、モウモウとタバコの煙が立ち込める、あんな職場に戻れる訳がない。
一度は「タバコ訴訟」も考えたが、相談に応じた弁護士の多くが首を傾げた。
「アメリカならともかく、日本では無理だと思いますよ。アメリカのタバコ産業は民間ですが、日本は半ば国営ですからね…最高裁に行くまでもなく途中の地裁あたりでも門前払いを食いますよ」
と言われては、伸枝も引き下がるしかなかった。始めの間は夫も伸枝の「タバコ訴訟」に大きな関心を示していたが、現実の裁判事例を聞くに及んで段々と諦めムードに変わって行った。
1994年の年も明けた頃から、伸枝の心の傷もいくらか癒えて新しい職場探しを始めた。2月1日から新しい就職口が何とか決まった。婦人雑誌が専門の出版社で、前の職場に比べ喫煙者も少なかった。これまでの悲しみを忘れるかの様に伸枝は仕事一途な人間になって行った。
そして18年の歳月が流れた。
巡る季節の中で、また伸枝は運命の岐路に立たされていた。母が認知症であるか否かの瀬戸際で課長になり、不況の続く出版社で新しい企画を何とか成功させたいと懸命な努力が強いられる中、母の認知症は日々現実化して行く様だった。次の月曜日、予定通りに都立病院の神経内科を受診した。医師はMRIの画像と長谷川スケールの結果やら甲状腺機能のデータを見比べて
「MCI(軽度認知障害)の疑いがありますね」とややぶっきらぼうに答えた。
「MCIとは何ですか?」と、
伸枝が尋ねた。
「MCIとはアルツハイマー型認知症の前状態と考えて良いと思います。このままアルツハイマー型認知症にならないケースが50%、ここから5年以内にアルツハイマー型認知症に移行してしまうケースが50%です」
さらに伸枝は尋ねた。その50%の差は何ですか?」
「それは生活習慣病の違いとか、家庭内でのストレスがどの程度であるかによっても変わって来るでしょう!」
「でも、先生。現実の生活で母は支障が多く出ていて、今までの様に母一人では生活出来なくなっているのですよ。先生が仰る様なMCI軽度認知障害とか云うレベルではないと思うのですが…?」
これまでの天ぷら火災とか、穴の開いたヤカンを平気で使っていた事とかの説明をした。それをじっと聞いていた医師は、
「分かりました、画像診断よりは臨床症状の方が先行しているのかもしれませんね。このまま経過を見ていても良いと思うのですが、そこまでお困りなら認知症の予防薬を少し差し上げましょうか?
先ずはアリセプト3mgを2週間ほど服用して、様子を見て頂けますか…」
「アリセプトって何の薬ですか?」
「日本で初めて出された認知症予防薬です」と、
医師は真面目に答えた。伸枝はさらに聞いた。
「そのアリセプトって云う薬には副作用はないのですか?」
「まあ、幾らかの消化器症状が出る事もありますが学会でも随分と推奨されていますから、大きな問題はないと思いますよ」
「そうですか、それなら先生がお勧めするアリセプトとか云う薬を服用させてみます」
次回に続く
関連記事

コメント