霜月の夕暮れ(28)

「細胞封入体って言うと難しく聞こえますが、一種の染(し)みと考えて下さい。若い肌は綺麗で染み一つ無いと言われていますよね、それが年令と共にホクロや怪我の跡とか、水疱瘡の跡とか色んな染みが出て来ますよね、それと同じ様な染みが脳細胞の色んな所に出来たのが、細胞封入体です」
「成る程、少し分かりました。それで細胞封入体が、どう認知症と関係するのですか?」
「その細胞封入体の出来た場所で、正常の脳細胞の活動が種々様々に妨げられて認知症のみならず、多くの神経難病を引き起こすのです。それら封入体にも多くの種類があって、その一つ一つを発見した学者の名前を取って、レビー小体とかピック球とか呼んだりするのです」
「そうですか、ご丁寧な説明を有難うございます。何となく理解出来ました。
それで母はレビー小体型認知症と仰るのですか、そうなるとどんな治療法があるのでしょうか?」
「先ず、レビー小体型認知症についてお話しましょう。この病気の大きな特徴は薬剤過敏症状です。通常の薬剤量でも強い副作用が出ます。今回の様にアリセプト3mgを5mgに増量しただけでも、あれだけお母さまに感情の変化が見られたでしょう。これが薬剤過敏症状なのです。次に自律神経失調症、便秘とか発汗障害、頭痛などです。それ以外にも幻覚、妄想、うつ症状など多彩な病状を呈します。それに症状の出方も色々です」
「かなり難しい病気なのですね?」
「そうですね、一般医ですとなかなか診断は困難かもしれませんが、最近はこの病気に対する概念もかなり拡まって来ましたので以前よりは見落としも減って来たと思います」
「分かりました。それで具体的に母の治療法はどうなりますか?」
「第一の薬剤選択はアリセプトで良いと思います。問題はその使用量です。5mgが多すぎたのは明白ですから、取り敢えず2mgの細粒からスタートすべきだと思います」
「えっ、3mgでなくても良いんですか?」
「これまでは3mgで良い状態だったとのお話しですが、この病気の特徴を考えれば出来る限り最小量のアリセプトから服用して頂きたいと考えるのですが…」
「よく分かりました。2mgからお願いします」
伸枝は満足気に頷いた。
「それでは2mgで2週間の処方でよろしいでしょうか?」
「2週間ですと直ぐに薬が無くなってしまいますので、1ヶ月ぐらい頂けませんでしょうか!」
「お気持ちは分かりますが、お母さまの病状が安定するまでは2週間程度の処方で次回も早い時期に診させて頂きたいのですが…」
と、医師は真摯に応対した。伸枝は心から納得して、
「失礼を申し上げました。先生の仰る通りにいたします」
と言って、軽い会釈を返した。
「それでは2週間後にお待ちしております。お母さまの体調はかなり安定して来ると思いますよ。それと成るべく多くお母さまとお話しをして下さい。より多くの会話と散歩こそが認知症の最大予防につながりますから…」
と言われ、その40才代後半と思われる医師の姿を伸枝は心の底で伏し拝んだ。
後は受付で会計を済ませ、病院脇にある薬局で2週間分の薬を受け取り田端の実家に母と戻った。こんなにも晴々として病院から帰ったのは、恐らく伸枝にとっては始めての経験だったに違いない。
次回に続く
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