霜月の夕暮れ(31)

「確かにな、俺だってお母さんが認知症と言われても未だ信じられないくらいだ!…正月なんか何処から見たって正常そのものだったし…」
伸枝は少しムキになって、
「それが認知症特有の『まだら現象』って言うのよ。長く一緒に暮らしていると分かるんだけど、1日や2日だと分からない事があるんだって病院の先生も仰っていたわ」
「ふん、そんなもんか。それだと静子さんも戸惑うかもしれないな。しかし、その『まだら現象』って言うのはどんな意味だい?」
「認知症の初期だと、認知症の症状が出ている時間帯と正常に近い時間帯とが交互に来るみたいなんですって。久しぶりに親戚と会ったりすると2日や3日は、まるで正常に見える事もあるそうよ。
ちょうどお正月の時みたいに」
俊治は少し驚いて、
「それじゃあ、素人には全く判断がつかないな!」
「でしょう、だから昨年の暮れから私が母の状態を貴方や静子に説明しても取り合ってくれなかったじゃあない」
「そりゃ確かに悪かったな…しかし、ここはブラジルだ。しばらくは静子さんに任せるしかないだろう。久しぶりの二人だけのディナーだ、何か楽しい話をしようじゃあないか」
「そうね、ご免なさい。でも、楽しい話ってなかなか出て来ないわね。
そう言えば、リオのカーニバルも今年は終わってしまったの?」
「今年のカーニバルは2月14日だったらしいよ。何と言ってもリオデジャネイロはブラジル最大の観光都市だし、人口は600万人を超え、サンパウロに次いでブラジル第2位の都市なんだ。その都市を上げてのカーニバルだから、それは凄いものだろうね。出来たらお前と二人で見たいものだが、そのチャンスはないだろう」
「でも、あなたなら見られるんじゃあない。一年近くはいるんでしょう?」
「何を言ってるんだ、そんな物を見る為にこんな遠くまで来たんじゃあない。鉄鉱石の採掘権をどこまで手に入れられるかは会社の社運も掛かっている事だ。これに成功すれば俺の実績も会社の株も上がるってもんだろう」
「そうね、今回の旅行は観光とは違うわね。私も頑張って日系人の取材に本腰を入れなければ…ね」
白ワイン一杯で、二人は少しずつ重い疲労感に包まれ出した。デザート後のコーヒーを口にするや共にベッドが恋しくなっていた。ともかく自由に手足を伸ばして眠りたかった。
10時前にはそれぞれのベッドで深い眠りに就いていた。翌朝は7時前に目を覚まし8時に朝食の席に着いていた。不思議に時差ボケの辛さは感じられなかった。
10時過ぎには現地スタッフの迎えで、昨日案内されたマンションに向かった。南半球なので6月から8月が冬季になるが、サンパウロの冬はそれほど寒くはない。8月の一番寒い日でも12~3℃はある。日中では20℃を超える日も多い。5月のこの時期は東京と殆んど変わりない。転居とか転勤には楽な季節だ。マンションには既に単身用の冷蔵庫、洗濯機、ベッドが用意されていた。しかし伸枝の寝具はなかった。仕方がないのでスタッフにマットレスと毛布など一揃いの寝具類を直ぐに手配してもらった。伸枝は少しムッとしていたが、現地スタッフは単身赴任としか聞かされていなかったので文句も言えなかった。それから数日間はマンション内で使用する日用雑貨の整理の為、夫婦で買物に追われた。
次回に続く
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